2009年文教研秋季集会が11月15日(日)午後、川崎市総合自治会館ホールで開かれました。テーマは太宰治「女生徒」を読む――〈希望を失いかけている人たち一人ひとりへ向けての励ましの文学〉として――。集会終了後参加者から寄せられた感想のいくつかを紹介します。 (2009.11.20)
  

今回もたくさんの方々のすてきなお話を伺えて幸せな一日だったと思います。ともすると希望を失いそうな昨今、希望を持つことのすばらしさが伝わってきました。読書離れしている自分を反省しました。「クオレ」が気になって、今、途中まで読んでいるところです。ありがとうございました。(N.Sさん 女性)



広島の例会で読みました。が、この“女生徒”をどう見るか、迷ってしまいました。太宰作品の魅力を見つけられそうな気がします。
 また、続けて読んでみます。(N.Tさん 女性)



■今、書かれたものでないが故に、その当時のイメージとは異なった理解がどうしてもされてしまう。それでもイメージを持ち寄ることで、よりしっくり来るイメージが出てくるということに気づけて面白かった。(I.Tさん 男性)



今回の集会に参加して、私は初めて太宰の「女生徒」にはモデルがいたことを知りました。有明淑さんという方の「日記」を参考にしたことを初めて知りました。ありがとうございました。書いてあることだけでなく、書いていないことも読まねばと思いました。

 
ジャピイとカアの部分について、雑草部分について、今井田さんの部分について、主人公は醜悪と感じたものを内心で軽蔑し嫌悪する一方で、それに深く執着する。醜く卑しいものの持つ痛みや哀しみを斟酌する。「この醜悪は私とは無関係だ」と切り捨て、目を背け、無視するようなことは絶対しない。また、醜悪と感じた対象に、自分の姿と心、自分が将来避けることのできない醜悪を見つける。醜悪と感じた対象にみずからの醜悪を見つけ、そこから目を離さず凝視している。主人公の見つける醜悪が“人事の醜悪”じゃないからこそ、“自分をひっくるめた醜悪”だからこそ、凝視も鋭くなり、批判もより激しく辛辣で感情的かつ深いものになるのだと思う。そして、醜い、にくい、嫌だなあと感じる、その心の奥に、裏返しの愛情のようなものを感じる場合もある。(カアの場合)好き嫌いは激しいが、あらゆるものと対して、“無関心”ということの無い主人公なのである。

 主人公は心に浮かんだことならば、美しいものであれ、そうでないものであれ、かしこい部分であれ、愚かとさえ思える部分であれ、大切なことであれささいで取るに足らないように思えることであれ、不可思議なところであれ、激しく反応し、丸ごと表現する。いいところだけ見せようとか、悪いところだけ見せようとか、偏ったことをしない。心に浮かんだ全てを均等に凝視する。だからこそ心のありのままが持つ混沌としたエネルギーと善悪美醜を含め多方向に揺れるダイナミックな振り幅を描けるのだと思う。ありのままの人間の心を描けるのだと思う。


 
「みんなを愛したい」という主人公の一言が心に残ります。(K.Nさん 男性)


一つの作品を、皆で読み合う会だよ、と聞き、それなら国語の授業のようなものかな、それなら5時間とかいらないじゃん、と思いつつ、参加しました。しかし最初の1時間で、その考えは間違っていたと分かりました。テーマが出され、そのことについて自分の見方、考えを言い合う、というのは授業ではあまり行いませんし、こんな高度な話し合いは高校生などには到底できません。私が何気なく読み飛ばしてしまったところに焦点が当てられ、私の気づかなかった「女生徒」の別の面を見られた事が楽しかったです。

 私はお話を聞きながら、「今井田さん」と「私のお母さん」はどちらが立場が上なのかが分かりませんでした。娘である「私」にまでお世辞を言っているのだから、「私」の家の方が偉いのかな、と思うと、「母」が今井田さんのご機嫌をとっているのは何故だろう。また、「そんなに私たちをばかにするんだったら」とあるけれど、お世辞は本心じゃないけれどばかにしていないと思うのに、なんでこういう事が書いてあるんだろう、と思っていました。そうしたら、 I さんの言った言葉でしっくりきました。数学のように、一つ決まった答えがあるわけではないけれど、きっとそうなんだろうな、と納得し、そこまで読み取れるんだ、と驚きました。

 また、テーマとして出された<「私」はどうして今井田さんのことが嫌いなのだろうか>ということについて私なりに考えました。「私」は、いろんなことを考えて不安定ではあるけれど、「自分」をしっかり持っているし持ちたいと思っているように思えました。だから、お世辞を言って自分を偽って世間体を気にしているような今井田さんが嫌いなのかな、と考えました。

 私の高校生活の中でも、自分の意見を言ったり自分なりの考えを持つのは大事だけれど、周りを見て周りの人に合わせることをまったくしなかったら、私は絶対に孤立してしまうでしょう。高校ですら、もし孤立したら大変なのに、大人になって孤立なんてしたら生きていけないと思う。だから周りの出方を見てお世辞を言ってご機嫌とって、とするのも分からなくはない。だけど、そんな偽りの言葉で作られた関係なんて嫌だとすごく思う。信頼なんてできるはずがないし、うわべだけの付き合いは、私自身もそれはとても嫌悪している。だから「私」にとても共感する。(もし「私」が今井田さんを嫌いな理由がそれだとしたら)

 最初、自分ひとりで読んだ時にはほとんど何も感じずに、「いろんなことに悩んでる不安定な気持ちなんだな」と思っただけだったのに、ここまで自分が考えをめぐらせたことに驚いています。時々、難しくて分からなかったりもしましたが、とても新鮮で楽しかったです。(T.Mさん 女性)


母娘で参加できたことが、まずはとても嬉しかったです。

 新しい「文学と教育」には、福田先生の追悼も含まれていて、なんだかとても不思議なような、感慨深いような気持ちになりました。

 「女生徒」! とっても楽しかったです。夏の集会での「燈籠」からの連続面と非連続面を感じながら読んでいました。語り口、と一言で言うけれど、ほんとうにその語り口で、その人となりが見事に浮き上がってくるのだなあ、と感じます。その人の立場、その人の感情のありよう、その人の教養のありよう……。太宰作品、やっぱりすごいなあ。Kさんの朗読も、いつもながらすごくて、「私」の息遣いや発想の仕方や自分の捉え方なんかが、とても鮮明に伝わってきました。

 帰り道、つらつらと、この「私」の短い言葉で読点が打たれていることの意味はどういうところにあるのかをもう一度考えていました。自分の思考を、ということは言葉を、少しずつ確認しながら、自身に問いかけながら、というふうにも感じます。また、なんというか、日常における思考の、うつろっていくまとまりのなさ、というか、連想ゲーム的に言葉が言葉を呼んでいくみたいな雰囲気(時には脈絡がなさそうにも見える)が表現されているのかなあ、とも思います。今日の話し合いを通して、大きく揺れているし、まとまりのない思考のように見えるけれども、彼女の根っこは、彼女が自覚している以上に深く地に根をはりつつあるように感じられました。そうか、このまとまりのなさ、という感じに描いているのも、いってみれば「厭戦」「批判精神」というようなものとは無縁に見せかける方法なんでしょうか。素敵なものは素敵と思える。嫌なものは思いっきり嫌悪できる。そして、そういう自分をもう一度見つめ返せる……それは、そんなに簡単ではないことだったと思うのです。彼女が孤独に耐えながらそれをできた理由も、お父さんやお母さんについての今日の話し合いの中ではっきりしてきたように思いました。

 今は、人が、さまざまな「溜め」を奪われて、どんどんやせ細っているような時代です。やせ細っていった結果、互いに不信感を募らせているような、そんな場面も日々出会います。自分自身、そういう中で、思考が固くなったり豊かに人を発見できなかったりすることがあります。「私」の鋭さ、「私」の真剣さ、「私」のごまかしのない姿に、時にはっとさせられ、時に大いに共感し、時には励まされるような気持ちにもなりました。「わるいのは、あなただ」という言葉。大いに共感していい気持ちになっている自分をぐさりとやられる、この感触。太宰だなあ、と私なりに感じます。

 丁寧に「自分」に、「わたしたち」に、豊かさを取り戻していきたい。そう思える一日でした。ありがとうございました。(A.Rさん 女性)


秋季集会2009年集会案内秋季集会の歩み