文教研[私の大学]第22回全国集会 総括   (『教育科学・国語教育』1973.12掲載記事から) 
   
   文学教育研究者集団第22回全国集会
 文教研第22回全国集会は、例年どおり8月6、7、8日の三日間、東京都八王子の大学セミナー・ハウスで行われた。定員100名に、やむをえない当日参加を含めて20名オーバー。今年は、定刻主義 も定着し、事前連絡にもとづく事前学習も深まった。
 第一部 私の大学/文学史の方法。福田隆義委員長の挨拶に始まる。<文学史を教師の手に>という継続テーマを文学史の方法という角度からいっそう深めようという骨子である。次いで、熊谷孝さん(国立音大教授)は、<文芸学入門講座>「文学史のための文芸認識論」というテーマにおいて、文学教育の要求する文学史の実践的なありようを追跡した。すなわち、(1)文学史は、統一的な文学概念の変容によって、たえず書きかえられていく運命にあり、過去の文学史に登場してこなかった『歎異抄』が今日新しい評価をかちえているのも、受け手の側の創造的完結を反映しているからである。したがって、(2)統一的な文学概念なしに文学史は構想されず、また一定の文学史のささえなしに文芸認識論の構築はありえず、両者は弁証法的な関連のもとに発展していかざるをえないのである。(3)芸術現象としての文学現象を考察するばあい、「芸術お祭り説」は傾聴にあたいする。人生の傍聴者は所詮芸術ないし文学に無縁であり、みずから「踊る阿呆」としてお祭りを計画し、お祭り自体を楽しめる人間が、全生活過程の一環としての芸術過程に参加する資格をもつ。踊る阿呆こそ、感動において自己のありようを問い直す条件をもっている。このような芸術の原点への思索は、必然的に、文学教育は何をいかにという基本的な問いに、真の解明をなげかけるものである。したがってまた、(4)芸術現象としての文学現象を見うる視点の獲得に、文芸認識は欠きえないことになる。富士山が特定の地点に立ってはじめて見うるように、文学現象も一定の視点においてのみ見うるものである。とくに文芸認識論にもとづく論理的認識体験は鑑賞体験の貧しさを補強し、そのゆがみを是正する役割もはたすのである。(5)新しい「世代」概念の導入は、真に階級的な文学史観の確立に有効である。従来の世代論は、祖父・父・子の世代というふうに、家族交代の順序を、同一年代の社会社会集団に拡大したにすぎない。生物学主義的発想に根ざした理論である。しかし、世代形成過程にある青少年期にショッキングな共通体験をもった人々が、壮年期になってもその理想なり体験なりを持続しているとき、はじめてそこに<世代>は誕生する、と言えよう。同一年代と同一世代はちがうのである。以上が熊谷さんのとくに強調したと思われる部分である。
 研究報告(1)「児童文学とは何か」(佐伯昭定/副委員長)においては、子どものための 文学という自明の現象が、民族の未来をになう子どもたちのゆたかなファンタジーなりダイナミック・イメージを顕在化していく過程として捉え直された。(2)「歴史小説とは何か」(荒川有史/事務局長)に於いては、熊谷孝さんの<世代>概念をふまえて、今日鷗外的世代や芥川世代の民族的証言に学ぶ必要性を強調。(3)「芥川文学における歴史小説の位置づけ」(夏目武子/副委員長、黒川実/常任委員)においては、(A)大正的現実の「環境の温度」をこえて自己の主題的発想を顕在化していった芥川の創作活動の意義、(B)舞台像と人間像との一致において人間の可能性を追求しつづけた芥川独自の歴史小説の特徴を解明。
 第二部 基本過程の共同研究(1)。「芥川竜之介『芋粥』の文体的発想をさぐる」報告(佐藤嗣男/東京・明星学園高、山下明/東京・桐朋高校)は、摂関政治確立期における時代設定が、安定期における大正的現実を生きる読者の鏡になりえたこと、しかし支配階級にとっての安定期が芥川的世代にとっては必ずしも安定感と結びつかないとき、それぞれの人間模様の形象化は、読者一人一人のありようを問い直す表現になりえていること等々を前提に、いくつかの問題を提起した。たとえば(1)我が五位という表現にみられるように、読者の視座は五位をあたたかく見守るところに設定されているが、必ずしも無条件に彼を甘やかすものではないこと、(2)また五位が芋粥に執着しはじめる時期とうけ脣の女房と別れざるをえない時期とが微妙に重なりあっていること、(3)五位をなぶり者にする同僚と比して、丹波の国出身の若き無位の侍だけが五位の哀歓を持続的に理解しつづけたこと、(4)五位の夢を破壊した藤原利仁の造型にも芥川文学の骨格を考えるうえで注目しておきたいこと、(5)芥川世代との対話を軸に読み直したとき、<絶望の文学><敗北の文学>という前時代的な評価は改められるべきこと等々。芥川文学を今日とりあげることの意味が、説得性のある報告で解明されたと言えよう。報告は分散会や全体討論で深められ、基調部分は最終的に確認された。
 チューターの鈴木益弘さん(横浜商高)は、その成果をふまえて三章以下の展開を跡づけ、不安の根源を自己凝視できない五位に哀惜のおもいをいだかざるをえないこと、五位の未来に展望はないが、しかし読者の視座において五位をこえていく展望が用意されていることなどを明らかにし、時間不足で充分討議できなった部分にもするどい照明をあてた。
 以下の報告は、次のとおりである。
 第三部 中学校・高等学校の教材体系。1 鷗外・竜之介の歴史小説の教材化=黒川実(明星学園高)、2 中学校の文学体験の形成=村上美津子(横浜・山内中)他。
 第四部 基本過程の共同研究(2)。岩倉政治作『空気がなくなる日』の総合読み=椎名伸子(東京・桐朋学園小)、安田清子(東京・東六郷小)他。
 第五部 小学校の教材体系。『空気がなくなる日』を中心に=佐伯昭定。
 第六部 大学の文学教育。特別報告・小中高の教育への提言=熊谷孝。
 「読むべき時期に読むべき文体の文章を」という文教研の提唱が、子どもたちの主題的発想をほりおこし、さらに発展させるという見地から深められたことなど、言及すべくしてふれえなかった問題が多い。『芸術の論理』(熊谷孝著、三省堂刊)や機関誌『文学と教育』№82(送料共260円)、№83(送料共210円)をご参照いただきたい。事務局は三鷹市明星学園内。
<文責・荒川有史>

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