文教研[私の大学]第18回全国集会 総括     (『教育科学・国語教育』1969.11掲載記事から) 
   
   文学教育研究者集団第18回全国集会
 “私の大学”の発想
 文学教育研究者集団(略称・文教研)は、「言語観・文学観の変革と国語教育」というテーマで、全国集会にとりくんだ。教育労働者としての自己の言語観・文学観を点検し変革することで、民族の課題に応える国語教育の全体像を追跡できると考えたからだ。
 今次集会では、その追跡の場を、“私の大学”に求めた。文教研“私の大学”では、今までに戸坂潤『科学論』『日本イデオロギー論』他、西鶴『好色一代男』『日本永代蔵』他、芥川龍之介『羅生門』『大導寺信輔の半生』他、太宰治『晩年』『鷗』他、大江健三郎『芽むしり仔撃ち』『飼育』等々と取りくんできたが、今回はその公開にふみきったものである。むろん、ゴーリキィの同名の小説に学んだ発想であるが――。
 なお、公開とは言えど、ゼミ形式、分散会方式による徹底した討論を保障するため、受講者を80名にしぼった。(今回は、8月7、8の両日、神奈川県湯河原町立観光会館で集会をもち、全員合宿。が、参加者は、東京首都圏を中心に、広島、大分、岐阜、宮城等々、各地域に及んだ。また、小・中・高の教師が主体となったが、保育園や大学の教師、さらに主婦や一般学生の参加も見られた。来年は、東京都下多摩丘陵の大学セミナー・ハウスで行なう予定だが、人数はもっとしぼったほうがいいのでは、とさえ考えている。また、“私の大学”の性質上、受講者の60%強が継続参加であるように配慮したい。)
▽虚構・想像・典型
 福田隆義委員長(東京・桜堤小)は、冒頭、文教研の立場と課題について解明した。すなわち、民族的発想において母国語操作のできる子どもを育てるためには、文体づくりの国語教育に徹する必要のあることを訴えたのである。
 熊谷孝さん(国立音大教授)は、“私の大学”の講義のなかで、“虚構・想像・典型”の切り口から、わたしたちの“文学とは何か”を問いつづけた。“文体づくりの国語教育”をきめこまかに押しすすめて行くための、理論的な礎石を提供してくれたのである。
 熊谷さんによれば、こんにちの虚構論ブームには大きなおとし穴がひそんでいる。民族の連帯を断ちきる方向で政治がおしすすめられ、繁栄ブームの虚名のもとに孤独地獄が拡大再生産されている。この孤独地獄からぬけだすために何をなすべきか。そうした目的意識が虚構論の基底にすえられるべきなのに、多くの虚構論は、実存主的な生き方の追求に屈折したり、一世紀まえの生の哲学の発想に転落してしまっている。その上、虚構即文学という論理の空転がある。
 ここ熊谷さんは、虚構概念を民族の連帯を回復するという視点からきたえなおし、ほんものの文学とにせものの文学のちがいを、明確に提示した。すなわち、1、虚構概念は文学の基本的な概念であり、それは「一般と特殊(個)との連続性を前提としつつ、他我との連帯を求めての形象的造形・典型化」の手段にほかならないこと、2、虚構による文学のいとなみは、「自我が他我との通路を求める連帯づくりの創造的意識活動」を通路として行なわれること、たとえば『野ざらし紀行』(芭蕉)の「猿をきく人すて子にあきのかぜいかに」という句の虚構をとおして、わたしたちは元禄期新興町人の孤独のきびしさにふれることができるし、こんにちの連帯づくりの模索に新しいはげましを受けること、3、そこに、未来の先どりというかたちで、「一般と特殊との新しい統一のしかた」を追跡する典型の認識が成立すること、4、にせものの文学はかつてあったことのたんなる記録にすぎないが、ほんものの文学は、自己の生活体験もふくめて、ある時点での人間の無限の可能性を追跡しつづけるものであること、たとえば『羅生門』の最後の一行――「下人の行方は、誰も知らない」――に、大正期の天皇制下の現実、絶対主義・ブルジョア民主主義・アナーキズムなどが複雑に交錯する現実にあって、人間の可能性を追求しはじめた芥川の虚構の眼があることetc.。
▽国語教育で何をするか
 “私の大学”第二部は、“虚構・想像・典型”の講義をふまえ、“文体づくりの国語教育”の過程的構造を追求した。“文学教育の構造化”の提案である。提案者の夏目武子さん(横浜・大綱中)は、没個性化への流れに抗して真の個性を育てるために、自己の発想のゆがみやずれを根底から問いつづける“文体づくり”の発想が欠きえないことを再度強調。その視点から、文学学習の一環としての鑑賞学習が、文学史学習、文学理論学習、表現学習のささえあいなしにはありえないこと、ひとつひとつの学習が過程的構造 として位置づけられねばならないことを、『人間の歴史』(イリン)、『羅生門』等に即して明らかにした。福田さんは、小学校低学年の国語教育の過程的構造をとり上げ、夏目提案を補強した。
 第二部は第一部で明らかになった原理を武器に、国語教育の課題を、文学教育中心にさぐった。つまり、その民族的課題は連帯の回復であり、それに応える教材(教科書)は文体のある文章であり、その指導法は印象の追跡としての総合読みである、という展開である。
 国語教育の民族的課題についての主報告者鈴木益弘さん(横浜商高)は、定時制高校生の実態を紹介。昼は労働者として働きながら、自己の存在に見あう意識をもちえないでいる彼らに、沖縄を通路とした新しい連帯の眼をはぐくむ必要を力説した。
 教科書グループの主報告者高沢健三さん(桐朋学園)は、全面発達をめざす全教科の教材編成の視点は、生産と労働におかれるべきであり、国語教育においては、民族の共通信号としての母国語の機能とのかかわりにおいて具体化すべきこと、そうした基本的な視点に立って文学教材を自主編成すれば、生産と労働、母国語のはたらき、文学体験の形成といったユニットは欠きえないであろうこと等々を証明した。
 印象の追跡(戸坂潤の提起した概念)としての総合読みグループは、『最後の授業』に即して、「総合読みは、自己の文体、自己の発想(発想の仕方)を自覚する(させる)読みである」という方法意識を具体的に展開した。そして、総合読みは、民族的発想につらぬかれてこそ活用できる国語教育の実践的武器であることを証明した。
<文責・荒川有史>

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