全国集会プログラム〔前文〕(2)

  
第45回全国集会(1996.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
現代史としての文学史――虚構精神とは何か、と問う視点から
(第31回と同文)

 言葉や映像は、その操作の仕方によって、真実の発見を保障する媒体となるし、また、虚偽を真実と錯覚させる魔術の手段ともなる。そして、現在の日本社会に氾濫しているのは、後者の言語魔術・映像魔術であり、またそれらを操る現代の呪術師たちであろう。彼らは、真に凝視すべき問題から私たちの眼をそらさせ、既定事実を真実と思いこませることで、私たちのイメージを固定化しその活力を奪おうとする。

 いま、私たちに必要なことは、そのようなイメージの固定化と虚像化に抗して、現実に対する私たちのイメージをより ダイナミックで持続的なものにつくり変えていくことだろう。とくに今回は、「単純化」という切り口から、その課題を担っている芸術の虚構精神の意義を掘り下げて考えてみたい。「単純化」とは、問題の複雑さをまっとうな方向性において整理し、問題の原点にかえって、単純・素朴に自己の問題のたてかた・くみかたの基本を問いなおすという形象的思索のありかたをさしている。

 こうした切り口を中心に、『皇帝の新しい着物』(アンデルセン作/1837年)と『コシャマイン記』(鶴田知也作/1936年)を読み合いたい。裸であることがバレても、「いまさら、やめるわけにはいかない」と言って行進を続ける皇帝のイメージが、現代の私たちにとってショッキングだとすればそれはなぜか。検討課題の一つになるだろう。後者は、第三回芥川賞受賞作であり、日本人のアイヌ侵略史を凝視しつつ、人間個々人の階級的本質や階級と民族・戦争と平和の問題を、まっとうな単純化によって読者に提示した作品である。両作品の検討は、また、児童文学と成人文学における、「単純化」の共通点と相違点とを明らかにすることにもつあんがっていくだろう。

 さらに今回は、連続テレビドラマ『北の国から』(倉本聰脚本/1981~82/全24回/フジテレビ)の第23回をとりあげる。


第46回全国集会(1997.8) 文学史を教師の手に 
【統一テーマ】
文学教育の復権――読者論の視点から

(第31回と同文)

 ここにいう文学教育とは、単に文学作品や文学的文章を読み解くといったものではない。母国語による言語形象を媒介として、人間が人間としてあるための道筋を思索する場のことである。

 民族(=生産と労働に従事する働く民衆)の歴史の総決算を反映した母国語の形象的操作(もちろん概念的操作に支えられての)をとおして、目の前にないものをあらしめる。あらしめることによって典型としての現実が、つまり、未来を先取りした現実の真の姿が見えてくる。文学的営為とはそうしたものであろう。

 言い換えれば、私たちは、生活感情に根ざした想像作用を駆使することによって、目の前にないものを現に見ることが可能となる。自己を把握し変革するための実験の場とも成り得る、現実以上の現実を体験する、つまり、準体験することが可能となる。虚構とは、虚構するとはそういうことだ。母国語を媒体とした虚構、それが文学なのである。

 作家は、外なる読者を反映し組み替えられた内なる本来の読者との対決・葛藤、つまり内部対話をとおして、作品を創造する。現実の読者はそうした本来の読者の視座を通路として作品と対話し創造を完結させる。文学作品を読むと言うことはだからして、本来の読者の視座を仲立ちとした、読者と作者との虚構精神のぶつかり合いだということにもなろう。

 一言で文学教育を語るなどと言うことは土台無理な話だ。が、混迷の時代にあって、私たち個々の内なる読者の検証と虚構の方法の検討という視点から、改めて問い直すことは十分に意味があろう。



第47回全国集会(1998.8) 文学史を教師の手に   
【統一テーマ】内なる会話の回復を
(第31回と同文) 

 「『一生で一番大事な進路を決める時期なので、動揺しないように』――校長の立場としては、生徒にこう言うしかないのかもしれません。でも、こんな言葉こそ、今の社会が中高生に与える利己的な無慈悲な圧力が込められているのではないでしょうか。同じ時代の、しかも同じ学校の友人の起こした事件です。それについて、ゆっくり、仲間みんなで悩む時間もくれないのですか。」――続発する少年事件について、高校二年生の女子生徒は、新聞の投書欄で、このように訴えている。

 同時代を生きる自分たちの苦しみについて、仲間みんなで考え合いたいという想い、それは、最も人間らしい願いだろう。本当に考え合うことでお互いが変わる。そのような相互変革の積み重ねを通して、外側の仲間は、一人ひとりの心の中に、相談しがいのある内なる仲間として住みついていく。そうした内なる仲間に支えられてこそ、私たちは、悪現実のもたらす無力感や孤独感に抗して、人間らしい生き方を求めつづけることができるのだ。

 だが、現在の日本社会を支配する「利己的で無慈悲な圧力」は、内なる仲間づくりの機会を子どもからも大人からも徹底的に奪いとろうとしている。教育もそのための手段となりつつある。

 内なる仲間づくり――そのことによる内なる対話の創造・回復、いま、それが切実に求められている。そして、そのためにこそ、内なる仲間づくり・内なる仲間との対話を通して真に自由な精神を培った文学――例えば芭蕉文学や井伏文学――との真剣な対話が必要なのではないか。また、こうした対話は、内なる仲間づくりの場としての文学教育を創造していく上で、重要な契機ともなるだろう。



第48回全国集会(1999.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
現代にとって“虚構”とは何か
(第31回と同文)

 「失業、経済危機につづく精神的な意気阻喪、自分を麻痺させようとする病的な欲望」の蔓延。詐欺師たちはそうした状況に付け込み、破滅への道に人々を誘いこんでいった……。ナチス政権前夜のドイツについて、ケストナーはこのように語っている。

 だが、現代の私たちもまた、これと似た状況の中に生きているのではないか。長引く不況と生活不安の増大――それは、私たちの人間的な感受性を摩滅させつつある。そして、そのような状況を利用しながら、戦争体制の「整備」(ガイドライン)と教育破壊が行われている。また、その一方で、救世主としての「強い指導者」を望む声も広がっている。その声がさらに広がっていくことを、現代の詐欺師たちは願っているはずである。

 悪現実の中にあっても、精神の自由を失わずに生きる。そのためには、人間らしい生き方を照らし出してくれる具体的なイメージを持つことが必要だろう。そのような「あるべき・ありうべき現実像・人間像」に支えられてこそ、現実を変革する実践も可能になる。そして、そのようなイメージを虚構によって造型することが、文学本来の役割であるはずだ。

 今回は、現代の私たちが必要とする文学的虚構とは何かという問題について、ケストナー(『飛ぶ教室』1933年)と太宰治(『津軽』1944年)の作品を読みあいながら、具体的に考えていきたい。1933年代から40年代にかけて、ケストナーと太宰は、ドイツと日本でそれぞれ、ファシズムによる人間疎外やファシズムに民衆をおいやっていく詐欺師たちと、文学的虚構を通して闘った。そのような彼らの文学は、多くの示唆や励ましを現代の私たちに与えてくれるはずである。また、両者の文学的虚構・文学的抵抗の共通点と相違点について思索することは、現代の日本社会を生きる私たちの課題を、広い視野において明確に把握するうえで、重要な意味を持つだろう。


第49回全国集会(2000.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
雪がなだれになる前に――ファシズム下の抵抗文学
(第31回と同文)

 私たちは、いま、どうのような時代に生きているのでしょうか。

 芥川賞作家の辺見庸は言っています。99年度、この国は途方もない間違いをしたのです。(辺見×高橋哲哉『私たちはどのような時代に生きているのか』角川書店、2000年2月刊)と。1999年問題――新ガイドライン法、国旗国歌法、盗聴法が抵抗なしに国会を通過してしまったこと、そしてまたそれらが、社会や個人にもたらす歴史的波紋を憂慮してのことなのです。

 辺見庸の憂慮が杞憂であればいいのですが、現実はどうもその逆方向に向かっているようです。森首相の教育勅語見直し発言、改憲の検討、日本神国発言、等々、ある種の“雪解けムード”が助長されています。読売新聞によれば、憲法改正に賛成する人が1986年では23%だったのが、今年の3月の調査では60%になったということです。改憲ムードは熟しつつあるというわけです。世論が“ある方向”に向けて形づくられてきています。

 1945年を銘記せよ!――ドイツの、日本では児童文学作家としてよく知られたエーリヒ・ケストナーの言葉です。ファシズムの抬頭を許す前に私たちの成すべき課題はあった、雪がなだれになる前に……と、彼は歴史的苦汁の中から言葉を吐いています。ナチスの勃興に抗し第三帝国にとどまって、わが祖国ドイツのありようを模索し見つづけた人の言葉です。

 1945年を銘記せよ! それはそのまま私たちに向けての言葉でもあります。そして、その線上に、1999年を銘記せよ、であるのかもしれません。ケストナーを軸として、ファシズム抬頭下の文学の抵抗のありようを、殊に、ケストナーから逆照射して見えてくる日本の戦前の文学のありよう――井伏や太宰の文学の抵抗の意味を明らかにすることで、この2000年段階の私たちの精神のありよう、文学の、文学教育のありようが、ひとつ、見えてくるものと思われます。この1999年ないしは2000年という雪が、なだれにならないことを願って、であります。



第50回全国集会(2001.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
雪がなだれになる前に

現代市民社会と文学
――芥川龍之介から大江健三郎へ
(第31回と同文)

 雪がなだれになる前に……。

 二千年紀を迎える直前、作家の辺見庸は、「九九年夏、この国は途方もない間違いをしたのです。」(『私たちはどのような時代に生きているのか』と警告を発していました。ガイドライン法、国旗国歌法、盗聴法と、露骨に示された国家の右翼旋回を忘れるな、ということです。

 けれども、そうした右翼旋回は、二十一世紀に入った今日、さらにその度合いを深めて民衆の精神生活の基盤にまで押し入ってこようとしています。「民間」の名を借りた「教科書をつくる会」による新自由主義史観にのった歴史教科書の検定通過です。

 山頂から一つの雪玉がころげ出しました。それ自体は何ちゅうことはないのかもしれませんが、気がついたときには、周りの雪をからめ取って大きななだれとなっているということはよくあることなのです。雪がなだれになる前に……。いや、すでになだれになってしまっているのかもしれません。

 そうであればなおのこと、一刻の猶予もない筈です。その意味では、私たちは〈ホー〉(『チーズはどこへ消えた?』)に見習うべきでしょう。「早い時期に小さな変化に気づけばやがて訪れる大きな変化にうまく適応できる」からですし、「まだ新しいチーズがみつかっていなくてもそのチーズを楽しんでいる自分を想像すればそれが実現する」からなのです。「チーズと一緒に前進しそれを楽しもう!」なのです。

 しかしながら、ホーの道は、改良主義的な適応主義に通じる危険な可能性をはらんだものでもあります。私たちは、今、どのような現実の中で生活をしているのか、目の前の現状打開といった即物的な解決を、だけではなく、同時に、人間らしい生活のありようを根元から問い模索する中で、あきらかにしていく必要がありそうです。

 私たちは今、矛盾に満ちた〈現代市民社会〉の只中で生活しています。そうした現実の中で右翼旋回に抗して、あり得べき生活を実現していくためにはどうすればよいか。今次集会では、一つの思索の道すじとして、現代市民社会の起点となった一九二〇年段階の芥川文学と、その成立を見た一九五五年段階の大江文学とに焦点を絞って見て行くこととしました。文学をとおして〈現実〉を思索する、――雪がなだれにならないためにであります。



第51回全国集会(2002.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
雪がなだれになる前に

現代市民社会と文学(Ⅱ)
――〈文体の喪失〉を越えて
(第31回と同文)

 「人間は自分の文体(文体的発想)というものを持ってこそ、主体的、個性的にものごとを考えることもできる。」これは、『文体づくりの国語教育』(三省堂/1970年刊)の中にある熊谷孝氏の言葉です。

 ここで熊谷氏が言う“個性”とは、他者との関係を切って捨てたところに保持される単なる特殊性のことではなく、「自他の固い連帯性に立った主体性」のことです。また、“文体”とは、形式主義的に分類された文の種類などではなく、その人間主体の行為・生き方に直結する現実把握の発想によって規定された言葉のあり方――その人ならではの言葉のあり方のことです。したがって、真に個性的な文体とは、仲間の体験をくぐり仲間とともに行動することによって一人一人が自己の分担課題を自覚していく過程の中で、また、相互変革を実現しうるような伝え合いを目指して一人一人が言葉を操作していく過程の中で、創造されていくものであるはずです。

 だが、現在の日本社会(日本型現代市民社会)における疎外状況は、個性的な文体を持つ人間が育つ条件を巨大な圧力によって押しつぶそうとしています。「人間の内部はバラバラに解体され、心身ともに独占資本への奉仕品として飼い馴らされ、画一化され、規格品化されようとして」(『文体づくりの国語教育』)いる状況は、1970年代よりも一層深刻化しています。しかし、だからこそ、私たち一人一人が自分の文体を回復していくために、真に個性的な文体を持った文学との対話が、またそういう対話を持続的に組織していく活動としての“文体づくりの文学教育”が今日ますます必要になってきているのです。

 今回は、大江文学・大江文体との対話を通して、今日の文体喪失状況と闘い、自己の文体を回復していく道筋を探究していきたいと思います。


 

第52回全国集会(2003.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
太宰治とケストナーにみる戦争の現実
――現代市民社会と文学(Ⅲ)
(第31回と同文)

 バグダッドが力で制圧された。米英のイラク侵攻。9.11同時テロがもたらしたテロの幻影への恐怖と不安、そして復讐。それらが米英の先制攻撃の一因であったことは否めまい。

 「我々に武器をらしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しばしばしかも実在しない架空の敵に対する恐怖である。」「復讐の神をジュピタアの上に置いた希臘ギリシャ人よ。君たちは何も彼も知りつくしてゐた。又、しかしこれは同時に又如何に我我人間の進歩の遅いかと云ふことを示すものである。」――〈侏儒しゅじゅ
(小人こびと=民衆=市民)の言葉〉に重ねて語られた芥川龍之介の想いである。

 不安が新たな不安を、そして暴力が新たなる暴力を産む。しかしながら、人間の進歩の遅さを嘆いてばかりでは始まらない。日本型近代市民社会の始発期にあって、個の自覚に立った市民(侏儒)の自立を追い求め続けた芥川のように、我々もまた、〈現代市民〉としての自立のありようを求め続けなければならないであろう。

 21世紀最初の戦争と称される現下のイラク攻撃に対してわき起こった地球規模での反戦行動は、攻撃を止めることができなかったという無力感や倦怠感を越えて、それでも、自分の意見は表明しておきたいという、現代市民のありようとその可能性を示してくれている。自立することで、国家とは常に緊張関係を保ちながら、暴力に走ることなく、非政府的で民主的な個人としてあり続けようとする現代市民のあり得べき姿を、である。

 勝者であれ敗者であれ、自立しようとする個人の内面に侵略し破壊するもの、その人為的極みが〈戦争〉なのだ。そうした戦争のみならず、個人の内面(精神)の自由を疎外するものを見極め、それと闘い克服していくなかで、自立は可能となってくる。

 そうした自立への道すじの追求の一端を語りあってみませんか、というのが、今次集会のテーマである。

 第1次世界大戦後の芥川文学を引き継いだ太宰治の第2次世界大戦後の作品を、当時の戦後文学との関連においてとらえ直して見ることで、また、二つの対戦を生きぬいてきたドイツの作家エーリッヒ・ケストナーの終戦日記を問題にすることで、まずは、《戦争と文学》という角度から、上記テーマに迫ってみませんか、というわけである。
〔2003.4.10 T・S記〕


第53回全国集会(2004.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
<喜劇精神>を支えとして
――戦争の現実を生き抜いた太宰治とケストナー
(第31回と同文)

 杉浦正士氏(「ザ・ニュースペーパー」プロデューサー)は、いま、私たちが必要とする<笑い>について、次のように述べている。(「暗い時代こそ輝く笑いを」/「朝日新聞」2004年1月17日付け朝刊)

 「現代はこぢんまりとした笑いで満ちている。/だが、こんな時代だからこそ、痛烈な皮肉と批判精神に満ちあふれた笑いが必要なのではないか。/笑いを共有するには、物事をきちんと知る努力が必要だ。そうすることで批判精神も生まれるのだと思う。」

 「目くじらを立てたり、深刻ぶったりするだけでは何も始まらない。……笑いはしかめっ面をしている人間をポジティブにしてくれる効用もある。/時代が暗くなればなるほど、その本質をつく笑いは逆に輝く存在になるのではないか。」

 杉浦氏がここで指摘している<笑い>こそ、真の喜劇精神に支えられた<笑い>である。強圧的な言葉や「こぢんまりとした笑い」を手段として、私たち一人一人を思考停止状態に追い込み、孤立化させようとする圧力が日増しに高まっている現在、このような<時代の本質をつく批判精神に満ちあふれた笑い>を共有することが、私たちにとってますます必要になっている。つながるべき仲間を私たちが見失わずに生きていくために、また、私たちの批判精神をより強靱なものにしていくために、それが必要なのである。

 今回の集会では、第2次世界大戦前夜、ナチス独裁下の1938年に刊行されたケストナーの作品『オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』と、太平洋戦争末期に発表された太宰治の作品『禁酒の心』・『黄村先生言行録』をとりあげる。暗い時代の中で発揮された彼等の喜劇精神との対話を通して、私たちの課題について考え合いたい。


第54回全国集会(2005.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
未来に生きる過去
――太宰治とケストナーの喜劇精神
(第31回と同文)

 アジア・太平洋戦争末期の1944年7月、乾孝氏は「未来に生きる過去」という論文をある雑誌に発表します。(「文学と教育」200号に再録)その中で乾氏は、厳しい検閲の目をかいくぐり、ぎりぎりの表現で、「聖戦」に民衆を駆りたてるために行われている「古典の再認識」や「伝統への復帰」を痛烈に批判しています。そして、古典や伝統という過去は、真の批判精神をもって過去と現在の現実を直視してこそ、まともな未来の創造を目指す私たちの実践を支える精神の糧――〈未来に生きる過去〉として機能するようになるのだと指摘しています。

 こうした乾氏の指摘をふりかえることは、現在、教育基本法を「改正」しようとする人たちが主張している「伝統文化の尊重」や「愛国心」の内実を見抜いていくうえで、また、私たちにとって継承すべき〈過去〉とは何かを見極め、そのような〈過去〉を未来に生かすための道筋を探っていくうえで、重要な意味を持っていると思います。

 今回の全国集会では、『長靴をはいた猫』(ケストナー)と『お伽草紙』(太宰治)をとりあげ、彼らが、民衆の笑いの伝統をどのように受け継いで、新しい民衆の笑いを創造していったのかを検討しながら、上記の課題に迫っていきたいと思います。



第55回全国集会(2006.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
未来に生きる過去(2)
――
太宰治と井原西鶴の喜劇精神
(第31回と同文)

 去年に続いて、今年の全国集会も、〈未来に生きる過去〉を統一テーマとしました。今年は、太宰治の『新釈諸国噺』(1945年1月刊)を取上げ、太宰が取材した西鶴作品との対比も行いながら、このテーマをさらに掘り下げていきたいと思います。

 太宰は『新釈諸国噺』の「凡例」の中で、次のように書いています。「この仕事も、書きはじめてからもう、ほとんど一箇年になる。その期間、日本に於いては、実にいろいろな事があった。私の一身上に於いても、いついかなる事が起こるか予測できない。この際、読者に日本の作家精神の伝統とでもいうべきものを、はっきり知っていただく事は、かなり重要な事のように思われて、私はこれを警戒警報の日にも書き続けた。」

 「私の一身上に於いても、いついかなる事が起こるか予測できない」アジア・太平洋戦争末期の現実。そのただ中で、太宰は、明日を待つという姿勢を堅持しながら創作活動を粘り強く続けていました。そうした姿勢にたった太宰が西鶴文学との対話を通して発見した「日本の作家精神の伝統ともいうべきもの」とは何だったのか。また、それは、〈喜劇精神〉とどのような関係にあるのか。

 今回の集会は、太宰と西鶴の作品に即しながらこれらの問題を検討し、過去を未来に生かしていくための道筋を探っていきたいと思います。



第56回全国集会(2007.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
文体づくりの国語教育――教材化の視点
(第31回と同文)

 私たちは、文体づくり――文体的発想づくりということが国語教育の固有の任務だと考えている。文体とは、現実把握の発想・発想法との関連においてつかまれたことばのありかたのことだ。自分の文体・文体的発想(文体として定着をみせた発想)をもってこそ、私たちは、主体的、個性的にものごとを考えることができる。真に個性的な発想とは、歴史を創りあげていく主体として、自分自身が人間らしくあるために欠くことのできない発想、仲間との真剣な対話を通して自他の相互変革を可能にしていくような発想である。文体づくりの国語教育とは、そのような個性的な発想を、またそれを持続的なものにする個性的な文体を、意識的に育んでいこうとする教育活動である。

 現在、人間らしくあるための基本的な発想、それに根ざす個性的な文体を、私たちから剥奪しようとする圧力がますます強まっている。それは、また、非人間的な行為や状況に対して怒りを感じることが出来ない鈍感な人間に、私たちを飼い慣らしていこうとする圧力でもある。

 このような教育の危機的状況に抗して、文体づくりの国語教育をどのように実現していくか。今回は、太宰治『走れメロス』・坂口安吾『ラムネ氏のこと』を取り上げ、文体づくり・文体的発想づくりという教材化の視点に立って両作品を検討し、この課題にせまっていきたい。


第57回全国集会(2008.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
“自分”を切り拓く“笑い”の文学――太宰治「畜犬談」とケストナー「一杯の珈琲から」
(第31回と同文)

 私たちは、全国集会で、これまで一貫して“笑い”の文学――すぐれた喜劇精神に根ざす“笑い”の文学を取り上げてきた。それは、個々人を分断し、人間らしさを奪い取ろうとする圧力が充満している現代の日本社会の中で、自分自身を見失わないために、また、そのような圧力に負けないで、真の仲間づくりを実現していく対話精神を私たち一人一人の内部に培うために、“笑い”の文学と対話することが不可欠だと考えたからである。
 今回も、そのような課題意識からこの二作品を取り上げた。

 『一杯の珈琲から』は、ナチスによってケストナー作品のドイツ国内での出版が禁止されていたため、1938年にスイスで出版された。(原作の題名は「ゲオルクと突発事件」、49年の戦後版は『小さな国境往来』と改題された。)また、太宰の「畜犬談」は1939年に発表された作品である。ファシズムが支配するドイツと日本――二人の作家は、自分が生きている現実の中でどのように闘っているか。そこで発揮される喜劇精神の共通性とそれぞれに固有なものとは何か。ゼミの中で検討していきたい。

 なお、『一杯の珈琲から』は、去年の秋季集会(07年11月23日)でも取り上げた作品であるが、作品の検討が不十分であった。その後、例会で検討を続け、全国集会で再度とりあげようということになった。今回は、最新刊「文学と教育」208号に、私たちが共同で作成したこの作品に関する〈注〉が掲載されている。この〈注〉に関しても今回の集会でぜひ検討していただきたい。


第58回全国集会(2009.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
〈私〉の中の〈私たち〉を考える――有吉佐和子「ぷえるとりこ日記」と太宰治「燈籠」を読む
(第31回と同文)


 有吉佐和子さんは、次のように語っています。「作家は孤独ではない。自分の創作過程を振り返ってみたとき、読者と心を通い合わせ、読者に励まされながら作品を書いていることを実感した。私は、自分の仕事を通して成長しようと強く思っている……」

 有吉さんがここで、自分の仕事を支えてくれた読者(=内なる読者・仲間)について語っていることは、小説家だけの特殊な体験ということではなく、真の自己凝視とは何かを考えるうえで重要な指摘だと思います。自分を見つめることは、同時に自分の中に内なる他者を発見することなのです。そして、その内なる他者(=〈私〉の中の〈私たち〉)が、自分を支え、励ましてくれるような仲間として対話の場を形成しているとき、自分の姿を正面から見つめ、内なる仲間たちとともに、今までの自分を乗り越えていく実践へと踏み出していくことが可能になるのだと思います。そこにあるのは、内なる仲間たちと自分が、共通の課題を前にして、肩を並べて立ち、互いに協力し相談しながら歩んでいくという関係です。この関係を、心理学者の中川作一さんは「三者関係」と名づけています。

 ところで、私たちが生きている今日の社会で支配的なのは、「三者関係」を破壊し、足の引っ張り合いの中で一人一人を孤立させていこうとする管理主義・競争主義です。したがって、こうした疎外された周囲の人間関係を「三者関係」に変え、その陣地を広げていくという地道な実践なしには、私たちの内面に「三者関係」を創りだし発展させていくことはできないでしょう。また、私たち一人一人が、内なる「三者関係」における真剣な対話を通して、自己の果たすべき本当の役割を発見し実践していくことなしには、周囲の人間関係を変革していくこともできないでしょう。

 いま、私たちが必要としているのは、私たちの内外に「三者関係」を創りだしていく実践であり、その実践を支え励ましてくれる文学なのではないでしょうか。今回は、このような視点から、上記のに作品を読んでいきたいと思います。


第59回全国集会(2010.8) 文学史を教師の手に
【統一テーマ】
「高校国語教材」の検討
現実発見の武器として
――芥川龍之介「羅生門」・安部公房「赤い繭」
(第31回と同文)


文学教育の役割は、学校教育を例にとれば、生徒一人一人が、<私の文学>(自分にとって文学であるもの)を持てるように、その手助けをすることにあると思います。<私の文学>とは、読み直すたびに、自分の主体が問い直されるような文学であり、また、自分の現実のつかみ直し(現実の発見・再発見)を可能にしてくれる文学です。

 文学教育が、このような役割を果たすためには、文学のエスプリが横溢している作品を教材化する必要があるでしょう。「高校国語教材」の中にもそうした文学作品はむろんあります。しかし、それらの作品は、生徒一人一人に、<私の文学>の発見を促すようなかたちで教材化されているのでしょうか。今回は、「高校国語教材」の中から「羅生門」と「赤い繭」をとりあげ、<私の文学>の発見を促す教材化のあり方とは何かという問題をみんなで検討していきたいと思います。


第60回全国集会(2011.8) ……文学史を教師の手に……
  「文学のことば」を、今こそ、発信しようよ――井上ひさしと太宰治


高橋敏夫氏は、『ムサシ』(2009年刊)に触れながら、井上ひさしの文学について次のように指摘しています。「『日本人』の中に宮本武蔵が棲むように、戦争嫌いで第九条堅守の井上ひさしのなかにも宮本武蔵は棲んでいる。井上ひさしの『笑い』がまず自分に向けられたのと同じく、武人宮本武蔵の否定は井上ひさしの自己否定から始まったのである。(「『日本人』を永くとらえる薄暗い領域へ」)

 井上ひさしは、自分の問題を棚上げにして、戦争を批判したのではない。自分の内側にある歪みから目をそらさず、自分自身が傷つきながら、戦争の現実と対決し続けた。高橋氏の言う「自己否定」とは、そういう井上ひさしの文学者としての精神を指しているのだと思います。
 言い換えれば、それは、確かな自己確認とそれに基づく自己否定によって、悪現実と闘い続ける精神ということです。そして、そのような精神を私たちの内部に培ってくれる言葉こそが、「文学の言葉」なのではないでしょうか。

 自分を傷つけることなしに、自分の問題は棚上げにして、現実を傍観者的に「批判」して満足している自分。また、どうにかしなくてはならないと思いながらも、どうにもならない現実の壁を前にして、アキラメの中に逃げ込もうとしている自分。

 そういう自分からぬけだしていくために、何が必要なのか。今、私たちにとって必要な自己確認と自己否定とは? また、それを可能にしてくれる「文学の言葉」とは?
 今回は、太宰治(「眉山」)と井上ひさし(「父と暮せば」)の作品を読みながら、それらの問題について話し合いたいと思います。



第61回全国集会(2012.8) ……文学史を教師の手に……
  “人間合格”の文学――井上ひさし/異端の系譜に立ってと太宰治


「オレ、人間、失格?」
 「いいえ、人間合格です。」
 ――ある日の、太宰治と井上ひさしの対話である。
 あり得ない作り話さと言ってしまえばそれでおしまいなのだが、井上ひさしの太宰評伝劇『人間合格』(初演 一九八九・一二)を観たり読んだりしていると二人の対話シーンが自然と浮かんでくる。

 バブル経済の八〇年代、大衆は総中流・人並意識にあおられて政治的無関心に陥るなど、その限り、非社会化された個の集合となっていた。九〇年代の<失われた一〇年>を経て、二〇〇一年以降は、新自由主義経済政策のもと、自己責任と自律が叫ばれ、格差社会がさらに増幅され、人々は分断され孤立した個と化してきている。

 加藤周一の指摘ではないが、明治近代国家の<普請中>にあって森鷗外は、国や社会全体との関係で自分を捉えようとしていた。社会化された個として自分を問題にする。けれども、殊に近現代日本の知識人の多くが鷗外の切り拓いた道を受け継いで行ったかというと、そうでもなかったようだ。社会化され得なかった個は個々の内側へと問題が求められ内化された個へと変貌していく。

 バブル経済崩壊後の格差社会がさらに個(人間)の内化、非社会化を押し進めているわけだが、今、ここにエポックメイキングな現象が生じている。<3・11>である。東日本大震災、福島原発、無力な政治、などなど。改めて、<人間=個のありよう>が根本から問われている。

 戦中・戦後にあって、「右大臣実朝」「津軽」「惜別」など、自分の置かれた状況を誠実に生き抜いた、己を愛する如く隣人を愛した人間を<この世のまことの宝玉>として描き続けた太宰。友人樋口陽一と同じ<戦後世代>として、バブル崩壊前夜に、そうした太宰の文学を<人間合格の文学>として復活させた井上ひさし。――<3・11以後>のいまこそ、改めて鷗外の流れに乗って、太宰治と井上ひさしとを合わせて検討してみること、必要なのではないだろうか。


第62回全国集会(2013.8) ……文学史を教師の手に……
   真の社会人になるために――森鷗外「高瀬舟」・井上ひさし「夢の裂け目」(東京裁判三部作より)


 「グローバルな経済競争に勝ち抜けるような人間こそ真の社会人だ。だから、そういう社会人となるためのコミュニケ―ションを育成することに、国語教育はもっと真剣に取り組むべきだ……」こんな言葉をよく聞かされます。この言葉の中にある「社会人」とは、上から強引に押しつけられている「現状」をそのまま肯定し、それに適応して生きていこうとする人間のことです。確かに、適応することを完全に拒否したら生きていけないでしょう。しかし、そこで考えることを止めていいのか。

 暉峻淑子さんは、「社会に支えられると同時に、社会をより良く変えて行く」人間、そういう人間こそが真の社会人だと指摘しています(『社会人の生き方』)。私たちが目指すべき<社会人としての私>とは、前者の「社会人」ではなく、この指摘にあるような生き方を選択する(選択し続ける)人間のことではないでしょうか。

 また、暉峻さんは、社会人となるために必要なことは、「人と人との、あるいは社会的な出来事と自分との関係に気づく人間らしい想像力」をもつことだとも指摘しています。それは、また、歴史の中に自分を位置づけ、過去を、より良い未来へとつなげていく実践的な発想を自分のものとするということでもあるでしょう。

 そのような発想を培い、私たち一人一人が真の社会人となるために、森鷗外と井上ひさしの文学と対話することは、大きな意味を持つと思います。



第63回全国集会(2014.8) ……文学史を教師の手に……
  飼い馴らされないために 対話の回復と喜劇精神――井上ひさしと森鷗外


 今、世の中の動きに不安を感じている人がたくさんいるのではなかろうか。それは首相の進めようとしている「積極的平和主義」が、戦争の惨禍を二度と繰り返さないと誓った戦後の平和憲法の精神から大きくはずれているからである。そうした中で朝日新聞の声欄に次のような投稿が載った。

 「憲法九条がノーベル平和賞の候補になったと聞き、思わず『ヤッター!』と叫びました。もしも、憲法九条が日本国民とともにノーベル平和賞を受けたら、世界中の紛争地に、水戸黄門様の印籠のように『控えおろう。この憲法九条が目に入らぬか』と示したいですね。『何が起ころうとも武力では解決しない』という日本国憲法の精神を世界に示す機会が奪われることがないよう願ってやみません。憲法九条は、この地球の希望の『ひかり』そのものだからです」と。これは「『憲法九条にノーベル平和賞を』と、その実行委員会の推薦に対して、ノルウェーのノーベル委員会からの回答」に賛意を示した投書である。

 後に実行委員会の記者会見の場で「もし受賞した際は誰に式に出席してほしいか」と聞かれた時、「日本国民の代表として首相に喜んで行ってほしい」と答えた。

 これはなんと愉快な会話ではないか。もし憲法九条がノーベル平和賞に決まり、日本国民の代表として首相が授与式に参列するとなれば、日本国民はいうに及ばず世界中の人々にとっても記念すべき行事になるであろう。ただ首相が堂々と「はだかの王様」を演じることを引き受けるかどうかだが。

 この受賞で世界にすぐ平和が訪れるとは思えないが、地球に生きる人々が決して武力で問題を解決するのではなく、お互いの立場や価値観を越えて、真摯に相手の話を聴き粘り強く対話を重ねることの大切さを再認識してくれるにちがいない。そしてそれに向けての不断の努力を確認し合うことの意義は大きい。

 私たち文教研は現代史としての文学史という発想で、異端の系譜に立つ鷗外、芥川、井伏、太宰に学びながら、今、新たに井上ひさしを加えてささやかだが持続的に、文学の視点から現代史の課題を追求している。そこで以上に述べてきた課題に添う形で、今次集会のテーマは「飼い馴らされないために 対話の回復と喜劇精神」とした。そのことはとりもなおさず、私たちの日常ごくありふれた生活の次元でのことばと対話のあり方を鍛えていくことでもある。

 今年も昨年と同じく森鷗外と井上ひさしの作品を読むことになる。集会当日は充実した話し合いを通して、アイロニーに溢れた批評としての「喜劇精神」を追求していきたい。



第64回全国集会(2015.8) ……文学史を教師の手に……
  対話精神の回復 本物の民主主義を求めて――井上ひさしと井伏鱒二

 政治学者の石田雄さんが、ある番組の中で、次のような意味のことを語っていました。一人一人が主権者として発言できる、それが民主主義だ。だが、それは、一方的に意見を言い合えばいいということではない。お互いが、他者をくぐりながら、対話の中で、自分たちに共通する課題について考え合う姿勢。苦しんでいる他者の声を常に聞き取り、そこから言葉を掘り起こしていこうとする他者感覚、対話精神、それに支えられてこそ、民主主義は本物になる……。

 現在の日本では、民主主義の破壊が、猛烈な勢いで進められています。石田さんの指摘をふまえて言えば、それは、私たちから対話精神を奪い、私たちを、「上から目線」でしかものを考えようとしない人間に改造しようとする圧力(攻撃)が日増しに強まっているということでもあります。

 そういう今だからこそ、私たちは、井伏鱒二と井上ひさしの作品を、その相互関係に目を向けながら改めて読み直す必要があると思います。なぜなら、この二人は、対話精神の樹立・対話の回復という課題にそれぞれの文学の創造を通して取り組み続けた作家たちだからです。

 今回は、日中戦争の真っ只中、お遍路さんの捨て子である女性たちが、老いも若きも、お互いを支え合い暖め合いながら生き抜いている世界を描いた「へんろう宿」(井伏鱒二)と、戦中・戦後を生きた林芙美子が、自己の戦争責任と厳しく向かい合っていく過程を描いた「太鼓たたいて笛ふいて」(井上ひさし)を取り上げます。



第65回全国集会(2016.8) ……文学史を教師の手に……
   岐路に立つ文学教育――「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)と「朽助のいる谷間」(井伏鱒二)

 いま、日本は大きな岐路に立っている。一つは、3月の平和安全法制(戦争法)の施行だ。日本の自衛隊が海外の戦争にかけつけ、殺し、殺される事態がいつ起きてもおかしくない。憲法9条がまさに無きものにされた。しかし、この事態のなかで、かつてないほどの多くの市民、国民がたちあがっている。とくに若い世代は、いままでにない語り口で「民主主義ってなんだ」「戦争法を本当に止める」と街頭から発信した。SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)だ。日付と名前をいれて「私は」「ぼくは」と一人称で語る。自分の発言に責任をもつ、自分も変化するという前提で話す。そのSEALDsの「選書プロジェクト基本図書15冊」のなかに『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)がある。1937年に刊行されたこの本が時代を超えて現代の若者の心に響いている。読み直してみた。中学生のコペル君が叔父さんとの対話のなかで自己凝視し、成長する物語だ。自分中心でなく、自分を人間関係の網の目のなかに位置づける。対話の相手もその網の目のなかの個人として尊敬する。そこにこそ、ほんとうの対話が成立する。いま、国語教育は、どう伝えるかのhow-toにやっきになっているように思う。大事なのは、何をどう伝えるかということ、いや、何をどう伝え合うかということ。文学教育の課題だ。1920年代の最後の年に発表された「朽助のいる谷間」(井伏鱒二)とともに、考えたい。


第66回全国集会(2017.8) ……文学史を教師の手に……
  今こそ、真の〝対話体験〟を文学教育で――井伏鱒二「さざなみ軍記」と井上ひさし「ナイン」

 「大学生の読書時間 『0分』 が5割に」という記事に関してどう思うか。新聞に掲載された読者からの投稿を読んで改めて気づいたのは、「読書した」といっても、「読書」という言葉に託された意味は様々だということだ。例えばAさんは、高校生までは全く読書しなかったが、それでも特に困ることはなかったという。大学では教育学部なので、教育や社会一般に関する書籍を幅広く読むようになったが、読書が生きるうえで糧になると感じたことはない。「(本は)読んでも読まなくても構わないのではないか。」

 だが、Мさんの場合、読書は、自分の人生・生活の中でかけがえのない一部となっている。Мさんが読書を始めたのは大学受験勉強を終えてからだったが、Мさんにとって読書は<出会いの場>だった。19世紀初頭の哲学者ヘーゲルと出会い、14世紀のダンテと出会い、また、現代人や日本人にもたくさん出会った。「いかにたくさんの人と出会うかが読書なのだと思います。」とМさんは書いている。Мさんの内部にはこうして出会った様々な人々(私の中の私たち)が生きており、彼らは、人生の様々な局面で、Мさんを支える大切な相談相手となってくれたのだろう。AさんとМさんの読書体験はどこが違うのか。あえて単純化して言えば、Aさんの読書は、「役にたつと思われる知識・情報をつまみ食いしようとする読書」=「使い捨ての読書」だ。だから、読んでも読まなくても構わないということになるのだろう。それに対して、Мさんの読書は、自己の人格・メンタリティーの中核を創っていく「対話体験としての読書」である。

 文学作品を読む場合、前者のような姿勢の読書では、その作品の世界は、自分の心に全く響いてこないだろう。文学者は、自分たちが人間として生き貫くうえで向かい合わなければならない問題について、読者たちとともに対話の中で思索する場として、作品の世界を創造している。したがって、その対話の場に参加していく姿勢で読んでこそ、その作品と本当に出会うことができるのだ。そして、そういう「対話体験としての読書」を積み重ねることが私たちの内部に真の対話精神を培っていくことにもなるだろう。今回は、「さざなみ軍記」と「ナイン」の読みを通して、対話体験とは何か、対話精神とは何か、また、文学教育の問題について考えていきたい。



第67回全国集会(2018.8) ……文学史を教師の手に……
  バトンを渡すもの 受けるもの――吉野源三郎『君たちはどう生きるか』/羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』

 私たちは、2016年の全国集会で、『君たちはどう生きるか』 (吉野源三郎作・1937年)を取り上げました。それなのに、なぜ、また、今年、この作品を取り上げるのか。

 その理由は、『漫画 君たちはどう生きるか』
(羽賀翔一作・2017年)を読み、大きな刺激を受けたからです。この漫画は、原作の魅力を、現代の私たちに見事に媒介している。それと比べると、私たちのゼミは、焦点がいま一つ不明確で迫力に欠けていた。そう反省せざるをえなかったのです。

 言い換えると、羽賀さんの漫画は、吉野さんが手渡そうとしたバトンをしっかりと受け止め、現代の私たちに向けてそれを差し出してくれているのだけれど、私たちの場合は、バトンの握り方が弱くてフラフラしていたということです。

 そこで、今回は、『漫画 君たちはどう生きるか』を中心的なテキストとして読み合い、また、原作と漫画との間を往復循環しながら「君たちはどう生きるか」の世界をつかみ直していきたいと思います。

 当日、話し合ってみたい問題を、今、思いつく範囲で、以下に列挙しておきます。
  1.  羽賀さんは、あるインタビューの中で、原作について、この本は、「こう生きろ」と答えを出す本ではなく、「むしろ対極で、どう生きるかを、自分で考え続けること、抱え続けること。それを放棄しないということが書かれている本」だと語っている。本当の意味で自分の課題を持ち(発見し)考え続ける「自分」とはどんな「自分」なのか。そういう「自分」を「君たちはどう生きるか」の世界(小説・漫画)はどう描いているのか。
  2.  そういう「自分」であろうとすることは、原作が発表された時代(1937年~)と現在とではそれぞれどんな意味を持っているのか。その共通点と相違点は?
  3.  小説と漫画というジャンル的特性をふまえて読み直した場合、「君たちはどう生きるか」の世界はどのように見えてくるか……等々。
 当日は、もっといろいろな問題が話し合われるでしょうが、今度こそ、一人一人の「胸からわき出してくるいきいきとした感情に貫かれた」(「おじさんのノート」より)話し合いを実現したいと思います。


第68回全国集会(2019.8) ……文学史を教師の手に……
  文学の論理とは何か ――西鶴と鷗外・芥川が問いかける

 自分の人生において、井原西鶴(1642-1693)の作品を読んだのはいつだったでしょうか。高校で『世間胸算用』を読んだ時でしょうか。

 もしかすると、わりと多くの人には、芭蕉や近松と同じ時代を生きた人として名前を聞いたことがある、という程度にしか西鶴はとらえられていないのかもしれません。

 西鶴は、江戸時代の「銀(かね)が銀
(かね)をもうける世」、町人が活躍する時代を生き抜きました。「人はばけもの、世にないものはなし」(『西鶴諸国ばなし』)と意表を突く言葉で時代を切り取り、あるべき人間とあるがままの人間と、多様な人間模様を自在に描いてみせてくれました。しかし、西鶴の文体に親しむ機会が少ないように思えます。

 新学習指導要領の中での文学の位置づけの弱さが指摘されています。さらには古典を文学として位置づける発想が、ローソクの火が燃え尽きるように弱まっている現状に、私たちは危惧の念を抱いています。

 今こそ西鶴を。

 近代から現代へという生きた文学史の中で西鶴をとらえなおし、鷗外や芥川の文体と比較しながら、西鶴の文体を楽しんでみませんか?



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