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  N さんの例会・集会リポート   2011.1.22例会  
   
   井上ひさし「闇に咲く花―愛嬌稲荷神社物語」
文教研のNです。
前回例会では、井上ひさし「闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語」(1987初演/『井上ひさし全芝居 その四』新潮社所収)第一幕を読み合いました。

場面は1947年夏、歴史学者・中村政則氏によれば、この46・47年というのは最も自由な解放感のあった時期だったということです。
46年11月日本国憲法公布、47年日本国憲法施行、その間に47年マッカーサーの2・1スト中止声明。
占領軍は解放軍ではなかった、ということが鮮明になっていく分岐点としての2・1スト。
その直後の設定の面白さ、という点が押さえられていきました。
46年太宰治「男女同権」、47年「トカトントン」が発表される時期です。

引くおみくじ、引くおみくじが「大吉」になりそれがまた当たる場面が話題になりました。
いかにも面白い、爆笑のタイミングが見えてくるような展開です。
そこで、それは確かに「笑劇」的構成だが単にそれだけだろうか、という問いかけがされました。
そこから見えてくるものは愛敬稲荷神社に集う人々の「家」とは違う家族的な人間のつながりであり、
それは靖国神社を介してのつながりと対比されると同時に、「きらめく星座」のオデオン堂の人々とも重なってくる、という指摘がありました。
人々の願いが、「笑劇」的テンポで語られていく、という指摘でした。

ここを読みながらこの作品における「偶然」と「必然」の関係を考えました。
「大吉」が出るのも偶然だし、いいことが起きるのも偶然だけれど、例えば「一郎くん」の仕事が決まったのは彼の誠実さなら当然報われるべきこと、必然であるべきこと、ともいえます。
「きらめく星座」の手紙を引いて結婚相手を決める場面のことも考えました。
誰の手紙を引くかも偶然の産物だけれど源次郎さんの手紙が多ければ確立は高くなる事実、です。
そこには「戦争」という、外れ籤が沢山入った籤を引かされ続けてきた人間の、それでもこんな「偶然」を引き寄せることだって出来るんだ、という姿があるように思いました。
地道な日々の「必然」の力で、あるべき「偶然」に当たる確立をあげた、ともいえる人々の「力わざ」が披露されている、それがここを読んで爆笑したとき自分の中にかきたてられるエネルギーではないか、そんな気がしてきました。
偶然がテンポよく重なっていくのは面白い、その爆笑の中身について、もっと考えてみたいと思いました。

第三場では以下に紹介するような「ゴムマリ論」をめぐって、様々にイメージが広がりながら発言が続きました。

 <公麿> 神道はゴムマリなんだよ、健太郎。日本民族という皮で包まれたゴムマリ。
内部(なか)には浄く明るい心がいっぱい入っている。ゴムマリだから、外部(そと)から力が加えられればおとなしく凹こんでいる。しかし外部から加えられていた力がなくなれば、いつの間にか元の、まんまるな形に戻って勢いよく弾み出す。(中略)このように神道には、浄く明るい心があるばかりだから、それぞれの時代の空気を穏やかに受け容れることができるわけだね。間口が広く、懐は限りなく深い。そこでデモクラシーにしても、そのいいところは受け容れておいて、あとはゴムマリ、アメリカさんの占領が終わったら、またもとのまんまるに帰る。上に合わせてくるくる変わっているわけでは、決してない。上とは、よろしくつきあっているだけだよ。

戦時中の日本を支えてきた神道の発想は、どのような形で戦後生き残り、そして、今日の一人一人の人間の問題となっているのか。
もっと印象を追跡し深めて行きたいと思いました。
……

次回例会は、これらに引き続き、第二幕へ読み進めます。


〈文教研メール〉2011.2.10より


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