N さんの例会・集会リポート   2010.2.13 例会  
   
  安部公房『壁』―「S・カルマ氏の犯罪」(第三回)

文教研のNです。
前回の例会は安部公房『壁』「S・カルマ氏の犯罪」(新潮文庫)の三回目、69頁「そのうち、眠っていないのに、足のほうから次第に上へと知覚がぬけて、やがて全身すっかりしびれて動かなくなってしまいました。」から最後までを読み合いました。
KさんとTさんの話題提供をきっかけに、作品全体の構成に迫る様々な意見が出されました。
ここでは三つの点に絞って紹介したいと思います。

まず、この作品で重要な役割を果たすビラについてです。
動物園で男たちに連れられていくとき目にした「旅への誘い! 世界の果に関する/講演と映画の夕べ」という文句。
「ぼく」に強い印象を残したこのビラの裏には、名刺たちのマニュフェスト「死んだ有機物から/生きている無機物へ!」というスローガンが書かれていました。
作品を読み進めてくると、歪んだ鏡に映し出された世界ではありながら人間世界と物質世界のせめぎあいが見えてきます。
そして、人間世界においてその胸の「陰圧による吸収」のために被告人として裁かれる「ぼく」は、今度は物質たちによって「永遠の被告」にさせられます。
そこには、裁判員たちのような人間として生きているというには歪みすぎた人間たち、「死んだ有機物」の世界から、名刺たちのような「生きている有機物」の世界への「革命的」移行が見えると同時に、人間らしく生きる生活を見失いつつある「ぼく」から「壁」として成長していく「ぼく」へ、という変化としても映ってきます。
名前がなくなること、それは人間社会において居場所がなくなること。そこにおいて逃亡しようとした先「世界の果」は結局、自分の部屋でしかなかった。そして、そこには無機物たちによる理想、無限に成長し続ける物質の世界が待っていた。このビラに象徴される作品世界は、きわめて絶望的な世界でもあります。

ここでもう一つ話題になったことは、“ナンセンス”な表現方法の持つ意味についてでした。
 I  さんは、安部公房「S・カルマ氏の素性」(「言語生活」)という文章を紹介しながら、次のようなことを話してくれました。
実存主義者の理論や主観を行動化する試み、そのための一人称形式、ということが課題意識としてあること。
ナンセンス文学を書こうとしたのでなく、リアリズムを追求するうちナンセンスを追及する必要に行き当たったこと。
内面と外面が何処から何処までかはっきりしない表現、それについてはルイス・キャロル「不思議の国のアリス」の世界を利用していること。
などなど。
そういう指摘を受けながら論議の中で、Y子という重要な存在の表現もまた、そうしたものであることが見えてきました。
彼女は「ぼく」が唯一、人間として関われたかもしれない存在です。
しかし、彼女は壁の下の居酒屋でタイピストのY子とマネキンのY子、半々の姿で現れます。
それは実際のY子がどうだったのかというより、「ぼく」にとってのY子はどんな存在なのかという視点で描かれたY子です。
ですからこうしたY子の姿そのものが「ぼく」のメンタリティーを表現していることにもなるわけです。

三つ目は、戦後文学、現代文学の課題、という点からの問題です。
これも I  さんが指摘してくれたことを軸に二点ほど紹介したいと思います。
一つは“必然と偶然”の問題です。
「こんな具合に理性が役立たなくなり、自由がなくなると、必然と偶然のけじめがまるでなくなって、時間はただ壁のようにぼくの行手をふさぐだけです。」(80・1頁)「全体このやっかいな人間どもは、堕落といい異常といい、悪いことは全部おれたちになすりつけようとする。(中略)必然と偶然の境目のなくなった世界、結局そうした奴等のあさましい願望がおれたちの責任でつぐなわれなければならないんだ。(中略)戦時中、反抗できぬ弱虫はただ発狂することをねがった。(中略)そのじめじめした願望を現実にして奴等にたたき返し、うんと言わしてやるのがおれたちの復讐なんだ。」(92頁)
そこには熊谷氏が大岡昇平「野火」(1952年)について指摘したことと重なる問題があるのではないか。
「戦争へ行くまでは、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。」「それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。」(熊谷孝『日本人の自画像』)
いつ死ぬかいつ殺人者になるか、発狂するか、すべて“偶然”に左右される戦争の現実。
それとつながる問題を日常性において、苦しめられる側から突きつける課題意識がここにあるのではないか。
また、もう一つは今までにない平凡なサラリーマンの中に起きている問題に焦点を当てている点です。
「ぼく」は保険会社のサラリーマンとして、順調に安定した生活を手にした人間です。
不況時代にあって、そこそこの生活を確保した人間の中で起きている問題、そうした視点から戦後の疎外状況の問題を掘り下げているところにこの作品の特色があるのではないか。また、そのことが後に安倍公房をして「“壁”にも階級性がある」と言わせているのではないか。

以上、私なりに三点にまとめてみました。この作品世界を“絶望的”と取るかどうか。読者の視座は何処にあるか。第二部、第三部でどう展開するか、楽しみです。

〈文教研メール〉2010.02.26 より


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