N さんの例会・集会リポート   2010.1.23 例会  
   
  安部公房『壁』―「S・カルマ氏の犯罪」(第二回)

文教研のNです。
一月第二例会は、安部公房『壁』「S・カルマ氏の犯罪」(新潮文庫)の第二回目、37頁「ここにいた!」から69頁「むしろ疚しさを掻きたてられるだけでした。」まで読み合いました。
内容的には、動物園の地下で行われていた「ぼく」の裁判の場面から、自分の部屋へ戻ってきたところまでです。

それに先立って、文教研ニュース1000号の大台に乗り、初代ニュース担当のSkさんからは、ニュースの始まった経過など楽しいエピソードの詰まったお手紙をいただきました。
内容はニュースに紹介されます。
その後、自筆の原稿をニュースに載せさせてもらっていいかどうか、電話でSkさんに問い合わせました。
お天気のいい日で散歩に出ていらしたようですが、後から電話をいただき快諾を得ました。
「体調はどうですか」と伺うと、「変わりなし!」ということだったので、「“頑固”にならずに、たまには顔を見せてください」というと、笑って受け流していらっしゃいましたが。
例会ではニュース作成にまつわる思い出などが語られ、現在のニュース担当であるHさんが、「2000号まで、がんばる」という決意を示されていました。

さて、「S・カルマ氏の犯罪」は裁判の部分をみんなで朗読してから、印象の追跡に移りました。
「ぼく」は、「私設警察」だというグリーンの背広を着た大男たちに捕まえられて、「裁判」にかけられます。
一見、事実に基づいて証人が立てられ裁判が進行しているような形をとりながら、「私設警察」とはいったい何を追及している組織なのか分からないし、被疑者の段階もなく即被告となり、弁護人もなしに有罪か無罪かが決せられていく、得体の知れない「裁判」です。
討論では様々な印象が語られましたが、ここでは二つの方向から、出された話題を紹介してみたいと思います。

まず、この奇妙な裁判の中で「あのかたはカルマさんです」と只一人「無罪」を主張した、Y子の存在です。
しかし彼女は「ぼく」と「名刺」が分裂していることを知りません。
Y子を愛しはじめていた「ぼく」は、「ぼくらの関係を見破るかもしれないぼくの私的生活に関心を持っている俗物、それがY子のことであったこと」(61頁)に思い当たります。
以前、「名刺」が言ったのは以下のような言葉です。
「一体君はここに何しにやってきたんだ。最初からここはぼくの領分だ。君なんかの出しゃばる場所じゃない。もし個人的に君に関心をもっている俗物どもに見られたりしたら、ぼくらの関係が見破られてしまうだろう。まったく迷惑至極だよ。ほんとうに何の用があるっていうんだい? さあ、早く行ってもらいたいな。ありていに言って、ぼくは君のような人間と関係しているということが恥ずかしくてならないんだ。」(19頁)
彼女はこのときタイプを打っていて、「ぼく」を見ませんでした。

しかし、もし見ていたら、「ぼくらの関係を見破ってしまう」危険な存在なのです。
自分に対し、個人的関心、私的関心を持つ人間だけが、初めて気づいてくれる自分という存在。
そうした人間の存在を強く求めながら、しかし、そのY子を見つめたら彼女を胸の曠野に取り込んでしまう自分であることを「ぼく」は自己凝視します。
Y子を自分の中に取り込むことはできない。
「Y子の後姿を見送るまいとすることは、たいへんな努力のいることでした。ラクダの檻の前での三倍もの激しさで、胸の空虚感はぼくを責めたてました。しかし良心は断乎として拒みます。あんな曠野にY子ひとりでどうやって暮らせるでしょう。」(67頁)

こうしたY子の存在とは、あるいは「ぼく」の思いとは、日常のどういう問題とつながりあってくるのか。
思索していく一つの切り口が用意されました。

もう一つの話題は、「ぼく」を告発しようとしている者たちが、みな「ぼく」に対して恐怖を感じている、ということです。
「『こっちを見るな!』と哲学者の一人がぼくに向かって叫び、『私もまだ吸い込まれたくはない。』と別な哲学者が叫び、まだ一言も喋らない法学者は蒼白になり、たちまち場内は激しい動揺におちいりました。」(45頁)
「ぼく」の胸の「陰圧による吸収」、その胸の「空虚」をみんな恐れている。
しかし、それは「ぼく」の内部にだけあるのだろうか。

例会の最後に I  さんが以下のような内容の発言をされていました。
「こっちを見るな!」と叫ぶ連中、この集団の姿こそ荒涼とした光景だ。
「ぼく」のような存在を自分たちとは違う人間として、犯罪者として仕立て上げ、隠蔽しようとする。
それだけの恐怖心を「ぼく」にいだく。
彼らはパーツ、パーツは見覚えがあっても、全体としては誰だかわからない、輪郭のはっきりしない存在だ。
しかし、彼らは自分たち自身がそうした個性を持たない、常に不安にさいなまれる荒涼たる存在であることに気づかない。
それは読者の視座において初めて見えてくる。
荒涼とした現実は内側にだけあるのではなく、外側にある。

「ぼく」の胸の「曠野」とは何なのか。
「ぼく」を裁判にかける連中が恐怖するものとは何なのか。
われわれの日常のどんな問題と重なり合うのか。
さらに読み進めていきたい気持ちになりました。

次回は、「そのうち、睡っていないのに、」(69頁後ろから3行目)から。
前半117頁、一行あけのところ「ぼくはスクリーンの中に顔からつっこんで行きました。」までをKさんが話題提供。
後半「と、ぼくは――」からTさんが話題提供。(そこで主語が「ぼく」から「彼」に変わります。)

〈文教研メール〉2010.02.11 より

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