N さんの例会・集会リポート   2009.9.12例会

   全国集会総括



文教研のNです。
前回の例会では、全国集会の総括が行われました。
今夏集会のタイトルは「<私>の中の<私たち>を考える――有吉佐和子「ぷえるとりこ日記」と太宰治「燈籠」を読む」でした。

例会での話題は、全国集会後のそれぞれの思索過程、たとえば有吉文学の印象の追跡や、湯浅誠氏の本、その他、映画であったり外国文学であったり、様々な鑑賞体験が話題になりながら進みました。
階級的視点に立って人間を見ていくこと、共有すべき課題を探り求めていくことが、例会内部でも非常に柔軟に討論されていっている印象でした。
ともあれそんな会だったので、話は多岐にわたりましたが、それぞれのゼミについて話し合っていたときに話題になったことを一点ずつ紹介しようと思います。

「ぷえるとりこ日記」では、 I さんが“戦後的キャラクター”ということを話題にしました。
崎子にしても、「非色」の笑子にしても、それぞれの階級的な位置は違うけれども、彼女たちは様々な階級、階層の人々とつながっていける、底辺層ともエリート層とも横断できる人物として登場する。たとえばそれは同年代の作家・小田実、「何でも見てやろう」というメンタリティーと共通していくものではないだろうか。
“戦後民主主義が生み出した人間像”とは。このことはこの時期の文学を見ていくときの重要な切り口であると同時に、今を生きる私たち自身に直結する課題でもあると実感しました。

「燈籠」のゼミでは、話題提供の仕方、ということについて一つの方向性が語られました。
熊谷先生が存命の頃に、「報告」ではなく「話題提供」を、という提起が行われたのは、討論が活性化するためには、そのほうがより有効であろうという判断からでした。
しかし、それは実際には非常に難しいことではあります。ただ、<構成に根ざした問題提起>ということがもう少し具体的に探られても良かったのではないか。
例えば今回の場合、「さき子の父の言葉、警官の言葉、水野君の言葉を対比させてみたとき、何が見えてきますか」、というような比較を試み、違いを話題にする、というような方法もあったのではないか。
実際に討論の中で刺激を受ける、というときは、矛盾点を的確に対比・指摘されたときにインスピレーションを喚起される、という発言もありました。
討論自体が<弁証法>的に進むとき、とはどんな感じなのか。
私たちの感受性を論理的にたたき上げる方向性は、やはりそこがよりどころだということをあらためて考えさせてくれた討論でした。


〈文教研メール〉2009.9.25より

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