N さんの例会・集会リポート   2009.4.25例会

    再読、有吉佐和子『ぷえるとりこ日記』 (第二回)



文教研のNです。

前回の例会は有吉佐和子『ぷえるとりこ日記』後半でした。
私が話題提供者でしたが、消化不良のまま例会を迎えてしまい、その後も手付かずになってしまいました。
報告が遅れてすみません。

そんなわけなので、前回最後にこれからの検討課題として出されたことを一点と、自分自身の検討課題を一点記して、これから再度検討するときのメモにしておきたいと思います。

一つ目は、プエルトリコは独立していないわけだけれど、では日本はどうかと言えば、60年代においても、そして今日においても、アメリカの属州ではないのか、そのことがどこまで描かれているのか、という点でした。
日本の戦後とは何なのか。
アメリカの植民地化された現実、そこからの独立とは。
自己を対象化(me)し、どのような未来(I/me´)を志向するのか。
そうした問題が、ホセたちプエルトリコ人との対比の中で、また、ジュリアたちアメリカ人との関係の中で、どう描かれているのか。

もう一点、自分自身としては、戦争体験とは何なのか、という問題があります。
崎子の中にある戦後の惨めさへのこだわり、その感情の質。
また、子豚の丸焼きが縮む瞬間、卒倒する感覚は、空襲体験、更には原爆体験を自己の体験としている人間のそれではないのか。
ジュリアとの対比や、インガボーグとの対比の中に、そのあり方が問われているように思います。

そして、これらのことを笑いの中にどう追求しているのか。
そのあたりをユーモアとアイロニーの関係を意識して、読み進めてみたい。
人間をどういう距離で見詰めたとき、最も大切な問題が見えてくるのか。
また、世界を知っていく、ということはどういうことなのか。
その知識のあり方、未来を切り開く知的好奇心とは。
若い世代への問いかけとして、考えていきたいと思います。

今日の例会は太宰治「燈籠」です。
さらにどういう課題意識が見えてくるのか、楽しみです。


〈文教研メール〉2009.5.9 より


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