N さんの例会・集会リポート   2007.02.24例会、03.27-29春合宿 
   
    「益田勝実氏の仕事」を読む 3


文教研のNです。

2月第二例会の報告が抜けてしまいましたが、この例会と春合宿を通して益田勝実『国語教育論集成』(ちくま文庫)に取り組み、一区切りつけました。

この取り組みについての総括は、様々な角度からなされるべきものです。

合宿では、益田氏の50年代の仕事と60年代の仕事の連続面と非連続面。

その解釈学的発想への屈折の問題。

また、熊谷孝氏が提起された「近代主義の克服」(反近代主義)という視点から見たときの、益田氏が目指した「日本独自の方向」とはなんだったのか、といったことが問題にされました。


ここではまったく私の個人的な総括として、益田氏が筑摩書房の教科書で取り上げた、坂田昌一『科学の現代的性格』坂口安吾『ラムネ氏のこと』をめぐって出た話題について紹介したいと思います。


『科学の現代的性格』というような文章は、国語教育の中でどう扱われるべきものなのか。

実際にこの教科書を使った二人の方の証言がありました。

Tさんは、授業後に生徒から「こういう教材を国語科でやる必要があるのか」と問われ、「以後封印してしまった」という自称「苦い経験」を語られました。

Hさんは「自分にはそれを語るだけの物理学の知識の裏付けがないから教材化しないできた」という意味のことを話されました。

また同時に、こういう論文を扱うことが、熊谷氏のいう「国語教育における論理教育」ということになるのか、という疑問も投げかけられました。


こうした問題提起を受けながら、私の中ではまだまだはっきりとした結論は出ないものの、 I さんの次のような指摘が非常に示唆的なものでした。

この論文の教材化に当たってのポイントは、事物それ自体が持つ論理としての弁証法、その発想のすばらしさをどう学生に媒介できるか、という点だ。

単に物理学の知識を得るためでなく、発想が触発され物理学以外の問題とつなげて考えられるようになること、社会の問題、人生の問題を考えうる問題意識の発掘につながればいい。

また、この文章は、坂田氏がNHKラジオで一般視聴者に分かりやすく科学の最先端を語った、まさに「科学の大衆化」(戸坂潤)のための言葉、文体だ。

新しい時代の科学者が大衆に語りかける文章として、その文体との関係で考える必要がある。


やはり場面規定が重要だということ、そして、「国語教育における論理教育」というもののイメージが前より少し鮮明になってきたような気がしました。


さて、もう一つは坂口安吾『ラムネ氏のこと』です。

これは益田氏が「レトリックの機能に開眼する―ゼミナール方式のための予習―」という文章の中にその教材化について詳しく述べられています。

実はこの文章の話題提供者になってしまったので少々構えて読んだ嫌いはありますが、率直に言って「予習ノート」「教材の手引き」に従って読むと自分で読んだときの面白さ、登場してくる人間たちの可笑しみの部分が余り発掘されない、だから、彼らの姿が自分の姿と重なってこない、問題が自分の問題になりきらない感じを受けました。確かにそこにある抵抗の姿勢については、それなりに理解されるのですが……。


討論の中で「予習ノート」の大きなレトリックは西尾実氏のいう「構想」、「教材の手引き」小さなレトリックとは「叙述」に当たるのではないか、という指摘がされました。同時に益田氏のイデオロギッシュな姿勢というものも指摘されました。

結果的にその二つが結びつく中で、事実に即した柔軟で動的な<場面規定>がなされなくなり、<喜劇精神>を媒介することができなくなっているのではないかという問題意識が生まれてきました。


実はこの作品は全国集会で取り上げられることになりました。

これから坂口安吾『ラムネ氏のこと』の魅力が、私たちの手で解明されていくことになると思います。


さて、合宿ではさらに次への展開として田中実氏の論文の検討がありました。

太宰治『走れメロス』を読んでいくにあたり、氏の論文を同時に検討するためです。

今日(4/14)の例会は、この『走れメロス』の印象の追跡、会場は烏山区民センターです。


〈文教研メール〉2007.4.14 より



 Nさんの例会・集会リポート前頁次頁