N さんの例会・集会リポート   2005.1.22 例会
 
  
 ユーモアの出発点――ケストナー『ファービアン』の世界(三)


 文教研のNです。

 先日の例会は「ファービアン」の続き、十一章から十九章を読み合いました。大分長いですし、いつものように私の印象に残ったところをいくつかお伝えします。

 一つ目は十三章の灰皿を盗んだ少女とのやり取りです。
1951/新潮文庫版『ファビアン』 ファービアンのところには、母親が尋ねてきています。彼は自分が失業している事を母には告げず、いつものように家を出てデパートをうろついていました。そこでランドセルを背負った貧しい身なりの少女が、父さんの誕生日にプレゼントしたくて灰皿を盗みます。子どもを罰しようとする大人たちを制し、ファービアンは灰皿のお金を払ってやります。

 「割らないように気をつけるんだよ。昔小さな男の子がいて、クリスマスにお母さんにプレゼントしようと思って、大きなお鍋を買ったんだよ。クリスマスの晩になると男の子はお鍋を手に持って、半分あいたドアの間をすべるようにサッとはいったんだよ。部屋の中にはクリスマスツリーがとても綺麗にキラキラ光っていた。そら、お母さんに……って男の子はいったんだ。そして、お鍋をプレゼントします、っていおうと思ったら、ガシャンという音がして、お鍋がドアにぶつかってこわれてしまったんだ。それで、その男の子は、そらお母さん、お鍋の取っ手をあげます、っていったんだ。なぜなら、もうお鍋の取っ手しか手に残っていなかったからなんだよ」
 女の子はファービアンを見あげて、両手で包みをぎゅっともちながら、「あたしの灰皿には取っ手がついていないわ」そういって、膝を折ってちょこっとお辞儀をして、駆け出していった。それからもう一度ふりかえって「ありがとう!」と、叫んで、姿をかくした。

 ここにあるユーモア。それはどういう性質のものでしょうか。
 男の子を襲った悲劇。しかし、この子はここで泣いてしまったり、すねてしまったりはしません。それは自分の悲しみだけでなく、それによって引き起こされる、母親の悲しみをも感じ取っている子どもの反応でしょう。そして、その話を聞いた女の子の言葉。それは「取っ手がないから大丈夫」とも聞こえるし、「取っ手がないから、もし壊してしまったら何もあげるものがない」とも聞こえます。
 どちらにしても、取っ手だけを母親にあげた男の子の真剣な気持ちを自分のものとして感じた言葉、そして、ファービアンへの感謝と信頼の気持ちが底に流れている言葉でしょう。子どもが子どもの視線で、現実に打ちひしがれないでやっていこうとしているとき、信頼する相手へ向けて発する言葉や行動。ここにはユーモアの出発点があるように思います。

 また、この場面はファービアンの母親への思いも見えてくる場面です。この男の子はかつてのファービアンでしょう。そして、今のファービアンの気持ちもその時と重なっている。ただ、今はお鍋の取っ手さえ、お母さんにあげることが出来ないのですが。

 続く十四章はその一章全体がファービアンの見た夢の世界になっています。それは所謂“悪夢”です。しかし、そこに描かれている人間たちの姿は、一つ一つ思い当たる。表面を一皮剥けば、むしろこれが本当の現実。そういったリアリティーを持った描写です。こういった描き方は「エーミールと探偵たち」の中にもありました。夢の形で、むしろ現実の本質をイメージ豊かに描き出す。小説の中に象徴的詩的な表現を組み込んでくるケストナーの資質も感じました。

 もう一点ご紹介したいのはコルネリアについての描写です。十五章、彼女はファービアンが眠っている間に、別れの手紙を置いて出て行きました。
 「遅すぎるよりも早すぎる方がいいのではないでしょうか?」という書き出しの、一見、相手を思いやっているかのような手紙です。しかし彼女は前日ファービアンに百マルクのお金の無心をしているのです。この手紙は「もう捨てるばかりになっていた花の花瓶を重しにして」置いてありまし
た。この花瓶は前日、母親が花を生けてその隣に20マルク札の入った手紙を置いていった、あの花瓶です。同じこの部屋で、一人ファービアンを待っていた花瓶と手紙。しかし、その描写の対比の中に、ハッキリとその意味の違い、人間のメンタリティーの違いがが描き出されています。

 最後、十八・十九章は次回への課題を出し合って終わりました。
 一つはラブーデの死に出会い、「感情が死んでしまった」と感じるファービアン。その深い悲しみによって起こる感覚の麻痺について、詩との関連で考えたい、という指摘でした。

  ぼくは椅子と椅子の間にかけるのが好きだ
  ぼくはぼくらの坐った枝に鋸をあてる
  ぼくは死んだ感情の庭をゆき
  そこに駄洒落を植えつける
                    (「経歴概略」より)

 さらに、ラブーデの父親像を8章の場面などとの対比の中で考えたい、「ファービアン」の同時代評(『ケストナー文学への探検地図』参照)も話題にして欲しい、といった課題が出ています。次回はこの十八・十九章を含め、最後までです。

 〈文教研メール〉より
 

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