N さんの例会・集会リポート   2004.06.26 例会
  
 
 『黄村先生言行録』にみる「太宰の強(したた)かさ」


 文教研のNです。

 毎日暑いですね。
 決してこの暑さのせいにするわけではありませんが、例会報告が大幅に遅れて申し訳ありませんでした。期末試験採点のめどもついたので、やっと着手です。

 前回例会は太宰治『黄村先生言行録』をとりあげました。既にこの作品は例会で取り上げて来ましたから、話題提供者も今までの話題をなぞるのではない形で問題提起を、と工夫されていました。

 例えば、「黄村」というのを現在、書店では「コーソン」と読む形で分類しているのだそうです。
そんな話題から、当時の読者、自分が最初読んだとき、作品全体を読み込んだ後、それぞれどう読んでいたか、読むようになったか、といった切り口から話されたのはHさんでした。そして、それはこの作品の<笑い>の質へと繋がっていく問題提起でもありました。

 と、話題は色々ありました。で、結局どういうことが一番印象的だったか。それは、とても自分一人で読んでいただけではつかめない「太宰の強(したた)かさ」でした。

 以前にも話題になった最後のところにある「南方の強か、北方の強か」といった表現などもそれです。無論、『中庸』の中にあるということで、豪胆か知謀かといった意味にもなるかもしれませんが、結局それだと「謎のような一言」なわけです。
 しかし、Sさんはこのところについて、次のようなことを話されました。

 慌てふためいた黄村先生がつぶやいた一言の中に、南進論を唱える海軍と北進論を唱える陸軍の姿が鮮明に見える<本来の読者>がいる。山椒魚に翻弄され、ばかばかしい失敗をする黄村先生が考える、あっちかこっちか。いかにも知識人らしく勿体をつけた言い回し。<本来の読者>はそこに言葉の大仰さと内容が見合わないおかしさを感じると同時に、南進論、北進論の大仰な議論と、そのばかばかしさを感じ取るだろう。そして、そうした黄村先生の言葉を「教訓の材料」とするだろう。時代を考えたら、たいへんな事を書いているわけだけれど、そこは『中庸』の一節、検閲だって大丈夫! 

 Sさんは、その他にもたくさんちりばめられた太宰の言葉遊びを指摘し、そしてそれが遊びで終わらない鋭い風刺の精神で貫かれた<喜劇精神>の産物であることを語られました。しかし、……これは実に、理解するのも媒介するのも難しい。
 I さんに言わせれば、それはやはり、わずかな限られた読者への表現だ、ということになるでしょう。

 はたして、どういう形で太宰作品の<本来の読者>へ迫ったらいいのか。面白いと思うと同時に、混迷を深めている私です。 〈文教研メール〉より


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