むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1989
               *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

1989/01/14 391

冬合宿研究会(12/26〜28) 記録〈その1〉 
 ※この記録のまとめは、当日、やむなく欠席したS氏が録音テープによってまとめたものである。
 ※記録の中で、特に発言者の名前が書いてないものは、熊谷先生の発言である。

○機関誌「文学と教育」146号合評
熊谷孝先生講演記録「文学の科学の対象領域」をめぐって


・文学教育研究とは何か。
 〈フィクション〉のねんどをこねるのは子ども自身である。これを大人がやろうとするから、押しつけになってしまう。ねんどを提供すること、良質のねんどを選び、示唆を与えること、それが文学教育(研究)にたずさわる者の仕事である。

・文学教育研究をやらなければ、意識的な文学教育活動はできない。
 文教研はそこをめざさなくてはならない。(これは学者側がやること、こちらは現場側、などと分けてはならない。)文教研が、この間やってきた月例研や合宿研にしても、文学史の検討自体が文芸認識論や文学教育研究になっているではないか。

○第38回全国集会テーマに関わる問題として
 歴史と理論の相関関係の視点からプログラムを組む。
 歴史とは、理論に指向された歴史。(それがないと、単なる年代史ということになってしまう。)
 理論とは、歴史の要約としての理論。

・ たとえば〈教養的中流下層階級者の視点〉というような概念、こういう言葉でしか表現できないもの、これもやはり歴史と理論の相関関係という視点から生まれたものだと思う。(N.T.)
・ 〈歴史〉それは自分の外に在るものではない。歴史という地層の上に立って、今の自分が在る。〈現代史としての文学史〉〈系譜論〉という概念も、このような観点に立っている。(S.T.)
・ 現代史としての歴史――、歴史とは過去のものではなく、今日の自分の生き方と、まさにかかわっている。(K.T.)
・ ゴーリキだったか、ランガーだったか忘れたが、彼の文学論、芸術論には学ぶべきものが多々ある。だけど、これには典型というものが欠けている、と熊谷先生から伺ったことがある。これもやはり歴史の問題ではないか。(T.M.)
・西鶴にしても近松にしても、それらの作品に触れる時、自己の感動の体験、自己凝視の大切さを感じる。それだけに、時代の「背景」とか、何々からの「影響」などといった、そういう言いかたのあいまいさを感じる。(A.Y.)
・歴史と理論の相互規定の問題だけど、要約していく過程が文学の科学の独自性なのだろう。(I.M.)

・デューイ哲学の継承者・斉田隆氏の批判。――国文学には、理論史、学説史がない、と。まさにそのとおりである。これは、日本文学における、〈文学の科学〉の弱点である。あるのは学閥。西鶴論をとおして、文学史や何やらにくいついていきたい。西鶴閥でやっていくのではない。
 

○西鶴文学は〈私の文学〉でありうるか
 1690年代の西鶴世代の文学的イデオロギー、それが〈私の文学〉である、という人は、どういう意味でそう言い切れるのか。また、ノーと言う人、それに近い人は、なぜそうなのか、自問してもらいたい。
 ただし、西鶴といっても、浮世草子の作者としての西鶴か、俳諧師・西鶴なのか。今日は浮世草子作者・西鶴を問題にしたい。さらにまた、その散文文学(浮世草子)の枠組みで考えてみても、初期の作品(例えば『好色一代男』など)を含むのか、晩年の作品なのか。今回は1690年代(晩年)の作品に限定したい。(「百三十里の所を十匁の無心」「長刀はむかしの鞘」「小判は寝姿の夢」「平太郎殿」「人には棒振虫同然に思はれ」を取り上げる。)


――お願い――
 次号の機関誌147号の印刷費を一月中におさめなくてはなりません。ところが現在14万円足りません。都合のつく方は、4月分までの前納をお願いしたいのですが。何とか急場をしのぐために――。〈財政部〉

(以下次号)


1989/01/14  392 

冬合宿研究会(12/26〜28) 記録〈その2〉 

○西鶴世代とは――〈常の町人二代目〉の中の〈西鶴世代〉
 〈二代目〉といえば、今日の私たちは〈プチブル二代目〉ということになる(初代は、明治初め頃の生まれのインテリ)。
 その〈プチブル二代目〉といっても、一つにはくくれない。
    @ “中流意識”への批判の眼 を持って生きているもの
    A ただ、リッチマン意識で生きているもの。
 さて、〈常の町人二代目〉とは――。食うや食わずの生活をしているわけではない。だがしかし、金融界をリードする力はない。自分をみつめ直し、世の中をみつめ直す。その代弁者が、西鶴(@)。その対極にあるのが、例えば、八文字屋本系の作者(A)。(秋成は、自己批判の上に立って『雨月物語』を生みだす。)


●「百三十里の所を十匁の無心」
 貨幣価値、米価がつかめていないと、西鶴作品をとらえ損ねる。 

【元禄期貨幣換算(概算):1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)】
*銀十二匁=12/60両=1/5両(約24,500円)
*銭一貫=1000/4000両=1/4両(約28,000円)
・「銀十二匁か銭一貫……」(「百三十里の所を十匁の無心」)

【元禄前半期米価(大坂):常年1石 銀60匁、豊年1石 銀40匁】
・「世間は四十目の米を喰う時、九十五匁の米を喰う事……」(「平太郎殿」) 

  「いよいよ銀十二匁か銭一貫、此人に御こし頼み申上候」云々。
 文面の上では、銀か銭(銅貨)か、どちらでもいいから、と頼んでいる。しかし、頼まれた兄のうちには、その商売柄、銭の方は何とかなるにしても、銀貨など、あるはずがない。じつは頼んだ弟の方はその事を百も承知している。無心された兄にとって、てっとり早く都合のつきやすい銭一貫文、じつはそれは銀十二匁より高い金額なのである。言葉ではいともさりげなく(しかし計算ずくで)そのように訴えている弟の心根。ペテン、こすっからさ。そこが、おもしろい所であり、二代目のそういった根性を徹底的に批判している。
 ところが、こういうところをいいかげんにすると、主題がつかめなくなってしまう。その意味で、諸種の市販テキスト該当部分に付された注記には大いに不満が残る。

●「人には棒振虫同然に思はれ」
 利左の一日の稼ぎは二十五文、これは、米一升買えるかどうかといった金額。これで親子三人が暮らしている。(米だけ喰っていれば、それで毎日の生活がしのげるわけではない。)こんな事から、その生活の切実さがわかってくる。

●〈印象の追跡〉「長刀はむかしの鞘」
 文章の特徴――〈俳諧的文体〉
 「世にある人と見くらべて、浅ましく哀れなり。」――これはいったい誰の叫びなのか。西鶴なのか、それとも……。どういう視点でみた時に、こういう言葉はでてくるのだろうか。この言葉の位置のことだけれど、初め連句的手法で、きて、そしてこれは結びとしての言葉である。つまり、発句に対する挙句ということになる。

・そういう立場の話し手 がいるということではないですか。作者の判断ではない。(S.F)
・賛成! 同じ生活者の叫びとして……(熊谷)

(以下次号)


1989/01/14 393

冬合宿研究会(12/26〜28) 記録〈その3〉

「長刀はむかしの鞘」(つづき)
 ――質屋・質種(質草)をめぐって
 ――質屋と長屋の人たちをめぐって
 ――「年頃三十七八ばかりの女」他をめぐって
 ――「心弱くてならぬ事なり」をめぐって
      (以上、話し合いの詳細を省略)

 ――「貧者の辺りの小質屋」
 ・どん底でありながら、人前ではネクタイを締めていなければならない、そういう人ではないか。これ芥川の『大導寺信輔の半生』の世界じゃないか。それと共軛したものを西鶴文学にみる。プロレタリアートでは持ちえなかった苦しみ。上層町人や三井などにはとうていわからない“どん底町人”の苦しみ、その叫び。(近世と近代の文学史におけるつながりの問題として)
 ・「利左」はヒーロー。その意味では「こよし」(「南部の人が見たも真言」)もそう言える。だが、この「長刀はむかしの鞘」にはそういう人物はでてこない。おそらく「貧者の辺りの小質屋」などという人物は、日本の文学史の中で、永久に出てこなかった、そんな人物ではなかっただろうか。
 ・「貧者の辺りの小質屋」は体制側のケチな代表者。それは「棒振虫」にもなかった。『万の文反古』にもなかった。だが、そのようにして西鶴は、さらに『日本永代蔵』的世界からも脱却していく。

 ・じゃ、“どん底”を書けば、それでいいのか。やはり、『西鶴置土産』を書くことで、意味が、よりはっきりしてくるのではないか。『西鶴置土産』の中にある「棒振虫――」の「利左」、これは、在る事がむずかしい世界が描かれている。だからヒーローなのだ。そして「こよし」もそうだ。だが、「長刀――」は、どこにでも在る世界、それをみつめている。
 ・このような二つの世界を捉えた作家が、日本の近世・近代の文学史の中に在っただろうか。

●残念。「浅茅が宿」の話し合いの所だけ残ってしまいました



1989/01/28 394

1月第一例会 報告 Y.R.

 年明け早々、世の中の動きが激しくなった。予想されていたこととはいえ、激しい闘いを前に、どこか緊張して今年初めての例会を迎えた。そうした状況にある方向性を示すかのように、例年より一足早く今年の全国集会案が企画部から提出された。
 統一テーマ〈文学的イデオロギーとしてのリアリズム――鑑賞体験の変革を促す読みのありかたを〉。熊谷孝先生のレジュメという形で1から10までのコメントが書かれている。プランを考えていくときの熊谷先生の思考の順序そのままである、というY.A.氏からの説明があった。従って、順を追って思索を深めることの中でテーマがに示された問題提起の意味がはっきりしてくるはずである。また、その思索そのものが、熊谷先生の思索の流れ、発想のありようを学ぶことにもなる、そんな貴重なレジュメなのだと思う。
 テーマの示す方向性を少しでもつかみたい、という目的で例会は進められたわけだが、私自身勉強不足のためにその十分の一も理解できていないように思う。そのため全く不十分にしかまとめられず、私自身のメモのようなものになってしまったことをお断わりしたい。

 リアリズムということを、どこか自分の問題、自分の現実と切り離したところで考えていたように思う。“この作品にリアリズムを感じる”というとき、一体それはどういうことを指していたのだろう。ある現実を見事に切りとっている、と感じる自分と、その文学的現実とはどうかかわっていたのだろう。

 「……現実の多様性をその多様性においてつかむ、という方法がそこに要請されます。その方法が、変形による典型化という芸術固有の方法なのであります。……カオスの別名にほかならない未分化な現実(現実像)に形を与えることで、現実以上の現実をイメージとしてつくりだす――これが芸術体験であります。芸術体験はこのようにして、現実以上の現実――現実像をつくりだす過程において、めいめいがめいめいの主体において自己の現実像をこえていく、という意味での抽象の体験にほかなりません。」(『芸術とことば』)
 「……特に〈文学の現実〉とか〈文学的現実〉というふうに私達が呼んでいるものは、いわゆる意味の現実の再現、再現された現実とは全く別のものなわけです。〈文学的現実〉というのは、ある文学的個性によるところの、それこそが現実であるもののことだ、ということなんです。」(『井伏文学手帖』)
 「……文学的現実というのは、文学的イデオロギーによって把握された現実のことである。」(「文学と教育」129号)

 例えばこういうところをどう読んできていたのか、ということを改めて問われてくる。そしてなにより、文学的イデオロギーという概念が 提出されたことの意味、意義を少しもわかっていなかったことに気付く。「……各人のメンタリティーとしてのプシコ・イデオロギーに内具する言語形象的認識機能に対して、いま一定の枠づけを与えようとする。むしろ、その認識機能の側面におけるプシコ・イデオロギーに対する枠づけである。それを枠づける言葉(その言葉に託した概念)が文学的イデオロギーである。……言語形象的に客観化されたプシコ・イデオロギーが文学的イデオロギーなのである。」(『太宰文学手帖』)ここからもう一度考えてみなければ。
 主体の問題をヌキにリアリズムとは――を考えてみたところで何もならない。言葉の意味をつかむのではなく、絶えず概念(思考の形式)をくみかえることでその概念を有効なものにすること、それによって自己の現実把握をまっとうなものにしていくことが必要なのだ。鑑賞をとおして、自分にとってリアリズムとは何なのかを問い直すことによってのみ、文学の独自性、文学的イデオロギーの問題としてのリアリズム概念が明確なものとなる。そうしたときにはじめて、役にたつ概念として機能するのではないか。また〈文学的イデオロギーとしてのリアリズム〉という概念について考えることが自身の文学的イデオロギーを高めることにもなる。その上昇循環が必要。
 その文学が自己の人間回復のために機能するかどうか。それはその文学が〈私の文学〉になり得るかどうか、といういうことにもなると思う。文学作品に定着をみせた文学的イデオロギーのありかたが、〈リアリズムをめざした、リアリスチックな変革の道すじ〉につながるのか。私達の確立しようとしている読みの理論は、概念をくみかえる理論であり、追体験ではなく準体験を導く理論であるはずである。

   (以下、略)


1989/02/11 395

1月第二例会 報告
 S.F.

「浅茅が宿」(冬合宿つづき)
 天皇問題についての椎名伸子氏(文教研会員)の意見(朝日新聞・声欄 1/19付)の紹介から始まり、次いで研究企画部からの第38回全国集会の日程を含めた、日程途中までの提案があった。ここでは世代論――六十年安保世代――が鋭く提起されており、賛成の意見が多く表明された。なお、これから全体の日程案が出された上で、再度、論じ合うことの必要を確認して終わった。

 次いで、冬合宿の継続で「浅茅が宿」の第6パートの検討に入る。
 初めに、特に「漆間の翁」像について論じられた。第4パートに、「宮木」の抑えたものいいがあり、そういう「宮木」を理解している翁(A.Y.)という把握をもとに、翁の教養に感動(S.N.)したといい、文盲である翁が、毎年八月十日を忘れず、五年を送ること、また、それは、「宮木」に翁が感動したからだ、という指摘。これに賛成意見が続いて、兵乱の中でも逃げないでいる翁、その教養性に土臭さを感じる。それは、「宮木」の生き方に、真の生き方として、賛同しているいるからで、単なる同情ではない。五年にわたって、とむらいつづけた。(S.T.)更に「手児女」を自分の中であたためてきたからこそ、そのような教養だからこそ、「宮木」が見えてきた。(Y.H.)
 こうした翁に対して、「旧(ひさ)しき恨みを聞え給ふべし」という翁のことばを、勝四郎はどこまでわかっていたか。自己凝視ができていない勝四郎(H.M.)という把握。「心ならずも」という勝四郎は、自己凝視のなさを示している。(A.Y.) 「稚(わか)き女子の矢武(やたけ)におはするぞ、老が物見たる中のあはれなりし」と、「宮木」の生き方に、心打たれている翁に対し、勝四郎の甘さが見えてくる。(A.Y.)

 次いで、第6パート(「寝られぬままに翁かたりていふ。」〜)後半部分に話題は展開した。瑕瑾ではないかというA.Y.意見に対して、賛否両論が述べられた。(中略)

・「いにしへの……」という歌の作者は、@勝四郎なのか、Aこの話をきいた村人なのか、それともBそれ以外の人物、たとえば翁なのか
・作品全体の位置から言って翁の歌と見ていいのではないか。
・とすれば、「此物がたりを聞きて……」というのは、やはり瑕瑾の一つではないだろうか。
・勝四郎の歌だとしても、勝四郎に自己変革といえる変化はあるのか。
・手児奈の話の位置付けが不明確。(等々)

 この問題は、リアリズムとロマンチシズムの問題としてどうつかむかという、冬合宿からの課題であるが、方向的な一致には至らなかった。
 そのほか、秋成の文学的イデオロギーとは何かということ、作品の舞台を戦国期に設定した理由は何なのかということ、「菊花の約」の幽霊との比較による「宮木」のとらえ方など、課題として残された。更に、近世の民衆文学の位置づけ、西鶴文学との比較などにも論及できずに終わっている。

 この例会で、次のような意見が強い印象として残った。
 @ 手児奈伝説を語らずにはいられなかった「翁」の生き方、それは手児奈伝説をまさに準体験している人の行為ではないのか。(Y.H.)
 A あの「翁」は手児奈伝説を、人として大切なものだと思っていたからこそ、「宮木」のメンタリティーがつかめたのだ。そんな人の心をくぐれるメンタリティーの持ち主。(N.T.)
 B 「翁」の語る「手児奈」は、「翁」の人間像と切り離しては考えられない。じつは、底に「翁」自身が描かれている。(I.M.)
 C「翁」と「宮木」とは、お互いに気持ちの通い合う人たちである。こんな歌が、もし「勝四郎」がつくったうた、だというならば、彼自身に自己変革がなければならない。しかし、それは勝四郎には認められない。(M.M.)


執筆活動
荒川由美子さん
「抜毛癖を呈した一少女の箱庭療法過程」(「箱庭療法学研究」Vol.1 bP)
樋口正規さん
「媒介者としての教師――高校国語教育の中から」(「稿」六号)



1989/02/25 396

2月第一例会 報告 T.K.

全国集会案の検討(続) 
 前回に引き続き、「第38回全国集会案」の検討を行った。新たに提示された「同案2」について熊谷先生から説明があり、その後質疑討論が行われた。

 当日の各紙朝刊は、前日発表された学習指導要領改定案の内容を伝えていた。その内の「国歌」「国旗」の義務化という一例をとってみても、この改定がいかに反動勢力にとって都合のよい方向に教育をねじ曲げていこうとしているのか、明らかである。熊谷先生は問いかけられた、〈自分の国の国旗・国歌に敬意が持てずには国際人として通用しない、と建前としてだれも否定のしようのないことを掲げて、だから国歌・国旗をと言う。しかし、だれが「日の丸」を国旗と認め「君が代」を国歌と認めたか。あののろわしき旗・歌をかってにそれと決めておいて、強要してくる。今、教師はたいへんなところに立たされている。文教研のメンバーはどう対処するのか〉と。私たちはどのような立場で、何をなすべきであるのか。「全国集会案」は、実はその課題を解き明かす方向で有機的に組まれているのだということが、この例会を通じて、より明確になってきたように思われる。
 話し合いの糸口に、ということでなされた熊谷先生の説明の中から要点のいくつかを取り上げてみたい。

■文教研は過去において運動団体であった。現在は研究団体である。研究団体はえてしてサロン化しがちだ。そのことを自粛自戒しなければならない、ということが一点。そして、我々にはめいめいに信条というものがある。信条の完全一致ということはありえない。文教研は信仰・信条の団体ではない。(たとえば“反戦”という点ではたぶん一致するだろうが。)だから、「日の丸」「君が代」の強制に対処すべき姿勢にしても、ただ単にテーブルを叩いて反対すればよいというものではない。あるときには引き下がって、ということもあろう。ここで妥協したらおしまい、ということもあるだろう。めいめいの事情がある。職場の事情、職場人としての立場……など。それらに応じてメンバー各自の行動選択がなされる、とれが研究団体というものだろう。形式主義は絶対にいけない。(かつて信条の不一致という理由で去っていった会員がいるが、その人たちと“教育のロマンチシズム”において通じ合えなかったことは残念だ。)

■大切なことは、“文学的イデオロギー”が、全共闘世代からは絶対に生まれえなかった概念だ、という点である。“文学的イデオロギー”の概念は、60年安保世代の体験を通してのみ生み出すことの出来た物の考え方・思考の形式だ。他に置き換えがきかない。いまだ日本の、世界の文学論史に登場していない。我々のみが作り出しえた思考形式だ。そのことをきちんと確認したい。

■ここは西鶴に例を求めて、ということだが、例は何であってもいいというわけではない。仮に秋成・芭蕉をもってきても成り立ちえない。近代文学でいえば、井伏・大岡なら可能だが、石川は絶対だめ(彼は突然変異の連続のよう)。「案」の右頁は左頁を移調させたもの。古典と現代の問題だ。左右の頁を相即的・相関的にとらえてほしい。(以下の※印の部分は討論の中よりまとめた。)
※ 西鶴だから、新興町人本来の意識のありようを自己の意識となしえた。本来の階級意識に辿り着くことが到達点でありえた西鶴の幸せ(西鶴には西鶴の苦しみがあったにせよ)。300年後の我々は、それと同じというわけにはいかない。階級存在としてプティ・ブルであることを免れえない自己であるとの確認に立ちながら、それを超えていくような意識をもたなくてはならないのだ。難しい立場に置かれているが、(メンタリティーとプシコ・イデオロギーにおいて)“超える”お手本は、ある。太宰文学を見よ。
 教養的プティ・ブル下層――この立場でなければならない。(“教養的”というのは、20世紀も終わりに近づいた今、必要不可欠な概念だ。“プティ・ブル”は、ある教養を持ちうる条件を与えられている。)
 つまり、本来の階級に“かえる”のではない。かえってはいけないのだ。自分自身とどう対決するか。対決できるようなプシコ・イデオロギーを持つことだ。自己の階級性の中で、どのような“世代”として生きるのか、ということである。60年安保世代の意識(特定の世代のプシコ・イデオロギーのありよう)は、むろんその年(1960年)に始まったものではない。二・一ストの失地回復、二・二六のそれというふうに遡ることができるのである。
 “安保世代”とは、プティ・ブルが産んだ意識であり、行動様式だ。プティ・ブルは悪か。否。なぜなら、我々はプシコ・イデオロギーで考えているから。
 文教研はプティ・ブル集団。プティ・ブルが、今日最高最善のことをやるために“研究”団体になった。「日の丸」「君が代」……これがピンピンとくる、それこそがプティ・ブルの意識のありようだ。プティ・ブルである自己をどこまでもきっちり押さえて、プティ・ブルであるがゆえに出きることを、文教研の中に注入していってほしい。
(中略)
■《質疑討論》の中では、それぞれの場面で全共闘世代とぶつかりあった数多くの体験が語られ、対話不在・善玉悪玉主義・大局への見通しの欠如 などが、その世代を特徴づけるものとして浮かび上がってきた。(以下略)



1989/03/11 397

2月第二例会 報告  M.T.

第38回全国集会・第3案の検討 
 前回にひき続き、第38回全国集会・案の検討を行った。この日、新たに提案された「同案3」について、熊谷孝先生から説明があり、質疑と話しあいが行われた。全体として外部に公表できるように簡素化した。(※項目のアタマの数字はプログラムナンバー)

1.岐路に立つ日本の教育・文学教育――挨拶にかえて
  
2.〈シンポジウム〉文学的イデオロギー概念の提起
  ――60年代安保世代のプシコ(心理)・イデオロギーと全共闘世代のそれと

6.〈共同提案〉西鶴文学をどう読むか
  @書誌的・伝記的な年代史と、文学的イデオロギーの視点に立つ文学史と
     ・「伝記的」を添えた。

7.〈演習〉西鶴のリアリズム――その二側面
     ・実在し得ないことに、西鶴の眼が向いている。
      不可能と思われることにテーマを見つけて、
      そのぎりぎりの所まで化の魚性を追求した。
     ・ありふれたものの中に、社会の本質をさぐってゆく。

8.〈講演〉西鶴文学の展開にみる、鑑賞体験の変革と文学的イデオロギーの深化
     ・この大テーマを講演でまとめる。
     ・安保世代のプシコ・イデオロギーと西鶴。
     ・世代論という観点からの、〈新興町人〉概念の動的なつか見直し。

10.〈演習〉戦争と文学
     ・近世文学をうけつぐ面、つながる面で問題をさぐる。
       (詳細省略)

11.講演二題
    1。きみは「君が代」を歌うか――政治と教育
    2。文学の機能に賭けた臨床心理の作業
     ・1。は、指導要領改訂による「国旗」「国歌」の強制のもとでどう対処するか、を。
     ・2。は、自己の分担課題として、臨床心理の仕事をしているA.Y.さんに。  

 質疑・話し合いでは、プログラムの有機的な構成を確実に把握することを目指して多くの発言があった。前日の「大喪の礼」のあおりのため、入試実務などで出席者がいつもより少なく残念だった。

 ひき続いての文教研〈2。26の誕生会〉は、恒例のA.Y.さんからの祝電披露で始められた。これも恒例の「私と文教研」や集会案への賛意表明などがあり、和やかな雰囲気の祝う会となった。



1989/03/27 398

3月例会 報告 
K.K.

全国集会・第4案の検討 
 第38回全国集会プログラムが、更に緻密に検討され、運営委員会から提案された(第4案)。
 第3案で、プログラム・ナンバー2。〈シンポジウム〉文学的イデオロギー概念の提起として組まれていた部分を、2。〈講演〉文学的イデオロギー概念の提起と、3。〈報告〉現代文学の源流としての芥川・太宰の文学的イデオロギー、という二本立てにしたいという提案であった。
 その経緯を、熊谷孝先生がお話下さった。
 ――私たち文教研は、芥川文学を現代文学の源流ととらえ、そこからさかのぼって、鴎外文学、特に、歴史小説に文学的イデオロギーのつながりを探り当てた。また、芥川文学の文学的イデオロギーを受け継いだものとして、井伏文学をみてきた。これらの文学的イデオロギーにタイトルを与えたのが「中流下層階級者の視点」ということであった。その視点を、文学の鑑賞者の視点として、私たちが日常、生きていく上で受け継いでいくのかどうか。文教研はこの視点で考え、「教養的中流下層階級者の視点」として、とらえ直してきた。その視点を自分のものとすることが、現代を生きていく上で重要なのではないか。
 私たちの階級的存在は、教師という職業を選ぶかぎり、プチ・ブル以外ではない。同じように、学生も、「学生らしい学生として、生活しようとするとき、プチ・ブル層に還元される」と戸坂潤が書いている。教師らしい教師としてふるまおうとするならば、自己をプチ・ブルと認識し、教養的中流下層階級者の視点に立つ以外はない。小市民の悪しき一面にとらわれるのではなく、自分はプチ・ブルであるという確認に立ち、そこを越えよう。
 自己の階級の確認と、それを越える視点の獲得を示した作品が、太宰の『右大臣実朝』ではないのか。
 今集会プロブラムに、6.〈共同提案〉西鶴文学をどう読むか、のパートが組まれている。なぜ、今、西鶴ととり組むのか、西鶴世代の文学にとり組む意味は何か。6.のパートのA西鶴文学の階級的・世代的基盤――〈新興町人〉概念の動的なつかみ直しを の副題を、プチブル概念の動的なつかみ直し と置き換えてみたらどうだろう。――
 以上のようなことをくまがいせんせいが提案補足という形で話された。
 この後、教師はプチ・ブルと規定すべきなのか、教師もまた(教育)労働者 ではないのか、という問題をめぐって、いろいろ意見が出された。その中でS.F.発言が、たいへんよく整理してくれたと思うので、次にその要旨を記してみる。
S.F.発言――私は、教師を教育労働者 とは思っていない。教育労働者という言い方は春闘などの場合、使うことはあるが、基本的には教師は「プチ・ブル」だと思っている。近代社会を考えるにあたって、ブルジョワジーとプロレタリアートという考え方が基本になければならないと思う。それは近代資本主義の発展の中で出てきた言葉・概念であり、まずそのおさえがなければ、いけない。
 ところで、教育史からいうと、「教育」というものは、もともと、プロレタリアートの中にはなかった。というのは、歴史的に見れば、「教育」は王族、そしてブルジョワジーが資本の発展の中で獲得したものである。その当時、「教師」というのは「家庭教師」が主だった。その「教師」がさらに広がってくるのは、近代教育の中においてである。炭坑などで幼児が働かされるのを救うために一時的に確保(?)する。それが集団教育という形で実験的に行なわれていく。そういう形で「教師」というものが広がっていく。
 日本の状況を考えてみると、戦前の教師は一般にはプアーであったが、『坊ちゃん』などで見るかぎり、女中さんも使えた。だが、戦後、相対的貧困化の中で、教師は賃金労働者として働いていかなければいけなくなる。が、やはり「教師」の位置づけはプチ・ブルであろう。だからこそ、自分が生きていくために、プロレタリアートと腕を組んでいかなければならないという方向が出てきた。
 現在、資本主義発展の中で、“リクルート問題”や“連合”が出てくるのは、労働の質が変わりつつあるということかもしれない。通信網、コンピューターなどの発展の中で過去のプロレタリアートという位置づけが変わってきているのかとも思うが……。現在、プロレタリアートは、中間意識といわれているような形でプチ・ブル化していく可能性を含んでいるのかとも思う。とにかく私は、教師はプチ・ブルであるし、であるからこそ、それを文学的に言うと、「教養的中流下層階級者の視点」ということが、問題にされなければならない、と理解してきた。
 以上、S.F.発言に教えられるところが非常に多かった。工場労働者であっても、研究会など文化活動をしている人もいる、教師も学校の中だけにとどまらず、親もまた“教師”の側面を持つ、等々、単純には言えない面もある、とS.F.さんが指摘されたように、状況は単純には割り切れない。
 この問題は今後、十分討論されなければならないことのひとつだと思う。



1989/04/08 399

春合宿 MEMO
  S氏ノートから


文学の科学の三側面論(「文学と教育」146,p.38)
 「文芸学」(Literaturwissenschaft)ということばがあるのに、わざわざ「文学の科学」というのはなぜ?
 それは、社会科学として出直したかったからなのだ。社会科学としての文学の科学。つまり、解釈学 と結びついてしまっている「文芸学」とまちがってほしくなかったからだ。

文献学という名の解釈学
 「文献学主義は、事物の代りに文書乃至文献の文義的解釈だけに立脚する、その最も極端な場合は、国語の内から、あれこれの言葉を勝手に取り出して来て、之を哲学的概念にまで仕立てることである。」(戸坂潤『日本イデオロギー論』)(147,p.44)
――ここにすべっていく心配はないか。ことばを単にことばとして読んでいく(解釈していく)傾向はなかったか。
――綿密(たんねん)に読んでいく、と言いながら、じつは……文義的解釈にすべっていったことはなかったか。綿密(たんねん)に読んでいくとは、作品の文章(ことば)に託されたイメージ・概念の組み替え、その事が大切ではないのか。西鶴の作品を読む時でも、井伏でも……。

 「だから、秋成がなぜ『菊花の約』や『浅茅が宿』で戦国期に取材しているのか、という問題をもっと作品に即して検討してみる必要がある。」(147,p.46)
――秋成が文教研でとらえているような方向でとらえている……ということなのかしら。
――西鶴の場合でも同じことだけど、どうも秋成の文芸認識論と文教研のそれとは共通しているみたいに感じられるのだが。
――〈秋成が戦国期に取材したその必然性〉未来はわからない、だから隣接する過去に舞台を求めて、西鶴とは違った現実に向けて……、ということだろう。

「百三十里の所を十匁の無心」
――この題名自体が俳諧的表現になっている。そう言えば西鶴の多くの作品名がそうなっている。
――なぜそうなのか、ということは読者大衆とのかかわりの中でみなければならない。
――「百三十里」と「十匁」、このちぐはぐさの中に、喜劇精神が。じつは、これが俳諧精神!
(以下略)


1989/04/22 400

春合宿と四月第一例会 報告 
S氏ノートから


戦争と文学――『多甚古村』から『増富の谿谷』へ
『多甚古村』より、もっとトボケているのが『増富の谿谷』ではないだろうか。
――そうなのか、あるいはそうではないのか、はっきりさせよう。
――トボケのありようが、じつはリアリズムの問題ではないのか。(N.T.)
――鴎外の“あそびの精神”につながるものを感じる。(Y.A.)
――『増富の谿谷』が雑誌に発表された時(昭和16年)、さし絵を描いた清水崑氏の絵は、すてきだと思った。今求めているもの、その精神に形を与えたもの、そういうふうに感じた。この娘さんたちの絵、チャラチャラした娘。娘だったら、こういう着物を着て歩いてみたい、それができなくなっているひどい現実であったということ。まさに井伏の文章をサポートしているではないか。日中戦争下、でたらめなものを、上から押しつけられた時代、そんな時代に、物事を合理的に考えようとすると、とんでもないことになってしまう。(熊谷先生、当時の読者として)

偶然文学論
(戦前、中川與一らによって論じられた偶然文学論と絡め、偶然と必然の問題について話が展開された。その中から二三の点を摘記する。)
――中川與一の「偶然文学論」(「新潮」S.10.7)などに見る「偶然論」には、第二信号系の理論やデューイの眼を媒介してみた時、学ぶべき所が多い。
――「偶然」の本質は、可能的であり、自由である、ということである。文学の持つべきモラル、それは、可能性と偶然性である。このことを中川與一は自然主義文学を批判しながら述べている。
「ものの本質を偶然と考える事によって、そこに本質の持っている不思議を囚へる事のみがリアリズムであると考へる。即ち今日では対照
(ママ)を追窮乏する事によって、物の本質であるところの真実の不可思議に突き当ること、これのみがリアリズムでなければならないのである。」
ここでリアリズムはロマンチシズムとは別のものとされていない。つまり、両者は二元論的にとらえられてはいないのである。
――中川與一の次のような言葉も、「鑑賞」とは何かを明らかにする上で検討に値する。
「人が今日小説を愛読するのは、小説よりも総て奇怪なる自分自身を、小説の形式によって認識しようとする事に他ならぬ。」

(以下略)


樋口さん、おめでとう
樋口正規著『文学教育の主体――文学教師への模索』(近代文藝社、\1,500)が刊行されました。

「ニュース」も、オメデトウ
ついに、400号になりました(1968年創刊)。



1989/05/13 401

4月第二例会 報告
 S氏ノートから

西鶴文学の階級的・世代的基盤(つづき)
 
○階級論的・世代論的視点を明確に――
・西鶴文学における1690年の意味、西鶴自身による西鶴世代の捉え直しを。
・新興町人概念の動的なつかみ直しの重要性。
――4月21日夜、NHKテレビで「大岡越前守」のことを取りあげた番組があった。パネル形式でいろいろの人が話していた。名奉行として、いろいろな逸話が残されているが、それはフィクションだとしても、銀経済の大坂に対し、江戸は金経済。大岡は江戸の金高にもっていくのが使命であった。
しかし、この番組に出たパネラーには、階級論の視点もなければ、世代論の視点も全く無い。階級論なり世代論、こういう視点でのつかみ方が出来るのは、いまのところ文教研しかない。
――今、マスコミでは、江戸時代は明るかったとか、鎖国はなかった、文化の交流はなされていたのだとか、主張する論が、どうも目につく。このような近世史の把握の仕方に対しては、根本的な批判が必要ではないか。
――そのとおり。今のマスコミには、どうも階級的人間疎外の現実から目をそらさせようという意図があるように思えてならない。明るかったら、西鶴文学ははたして生まれたか。(A.Y.)
――西鶴文学の世界を通すことで、江戸時代は何であったか、鎖国の現実はどうであったかが、明らかになるはず。(I.M.)
――西鶴作品では、たとえば掛け売りなどの経済現象をもきちんとふまえながら、文学として形象化がなされている。西鶴だからこそ厳しい現実の相を捉えることができたのだ、というあたりを報告で出してほしい。(N.T.)
――西鶴の19690年、井伏の1929年には共通するところがある。質的には同一方向の転換があった。明日を持ちえない、自己の築いてきた文化をも放棄せざるをえないような現実があった。

○現代文学の源流としての芥川・太宰の文学的イデオロギー
――「現代文学」、これは単なる「現代の文学」ということではない。現代を生きる私たちにとって「あるべき現代の文学」ということ。あえて挙げれば、大岡昇平、堀田善衛の作品の一部、井伏の歴史文学(『かるさん屋敷』シリーズ)というあたりだろうか。(Y.A.)
――文学的イデオロギーとしての階級意識、といえば鴎外をも含むのだが、中心はやはり、芥川であり太宰である。
――安保世代のプシコ・イデオロギー、これにかかわる形で芥川と太宰の文学が位置づけられるのではないか。(N.T.)

(以下略)


1989/05/27 402

5月第一例会 報告 
M.M.

〔10分コーナー〕
 樋口正規氏の新著『文学教育の主体だ文学教師への模索』の合評を行なった。司会はS.A.氏。
 17年間の思索の流れを知ることができて興味深かった。厳密な手続きをゆるがせにしない研究者としての態度、高校の教師として、組合を含めて実践活動を一貫してすすめている姿勢がきちんとそのまま の形でまとめられている点に敬服。文教研理論を拡める上での役割も大きい。次には、統一された論としての著述を、との要望、感想が相ついだ。
 熊谷先生からも、文学教育研究という側面領域での、外に出ての活動として、その積極的意味が強調された。仲間の仕事から、いろんな意味での大きな励ましと叱咤を受けたことを、感謝の気持と共に……。


もっと「思索」を

 メインの報告に先立って、熊谷先生から、次のような要請があった。文教研の活動に注目している知人(研究者)から、「機関誌を中心に見るかぎり、これほど生き生きと活動している団体を他に知らない。心惹かれるが、一方、これが果たして学問研究か、とも感じる。できれば、全国集会などに参加し、この眼で確かめたい」と言われた。
 ところで、ジャーナリズムを失ったアカデミズムは無意味である。真の意味のジャーナリズム=言葉の正しい意味での生きた批判=動的批判の精神を失わないように。また、学ぶ ことのみに専念して、思索 を忘れないように。文教研に欠けているのは思索活動である。変にアカデミックになるのではなく、また悪しき意味のジャーナリズムに走るのでもなく、これが唯一の学問研究の在り方なのだ、と言えるようにしたい。その事をまず明確に示してくれる場が、全国集会でのS.T.氏の基調講演である。


文学的イデオロギー概念の提起 (S.T.報告概要)
中間総括として、と前置きして、密度の濃い示唆に富んだ報告がなされた。以下はその概要である。

★ 大学の現場でも、文学教育がますます難しくなっている。それが何に起因するのか。(「空漠たる青年たち――60年大学紛争の後にきたもの」西尾幹二氏、毎日新聞 3.1夕刊、あるいは菊地章典氏の所説にふれて)全共闘運動は結果的には、修正主義、改良主義にとどまり、基本的な批判はなおざりにされている。その一方で、マルキシズム・階級論を否定する意見が出されている。この傾向は、ひいては唯物論・反映論の否定につながってゆくものであろう。しかし、唯物論・反映論の立場をぬきにして、現実を正しくつかめるか、現状をのりこえていけるのだろうか。西尾氏は全共闘世代がもたらしたものとして、善悪の微妙な違いが判らなくなっている事実や、ホンモノとニセモノの区別ができなくなっている点をあげ、それは、高校や大学の初期の段階で、偉大な文学を教えていなかったからだと説く。
 階級社会であるかぎり、根本の階級や階級意識に眼を向けずに、文学教育を唱えてみても、教養主義にすべるのがオチであろう。階級・階級意識のなしくずし的な否定の上で、若者の風潮を解明しようとしても、正しくは捉えられないのではないか。また、そこで言われている「中流階級」という概念も、“小市民・プチブル”とは異質なものであろう。

熊谷理論の形成と発展は、一貫して運動と研究との統一の中で展開されてきた。ここに単なるアカデミズムとの大きな違いがある。〈怒濤の葉の世代〉としての熊谷先生の中に、1930年代に発芽したものの体系化が熊谷理論であり、文教研理論なのではなかろうか。その意味で、この世代のプシコ・イデオロギーがもたらしたものと言えよう。

(ここで、社会状況の中での熊谷先生・文教研の活動が跡づけられ、さきの見方を裏づける詳しい説明がなされた。)
・1963年 『芸術とことば』刊行。この著書には、安保を闘った人々のプシコ・イデオロギーが脈うっている。怒濤の葉の世代の〈学徒動員〉〈二・一スト〉の失地回復を願う人たちの、民族の歴史の先をゆく世代の痛みを受け継ぎ、それを自分の課題として安保を闘い、そして、その後も闘い続けている人たちの痛みを自分のものとして展開している。そこにこそ、安保を闘った人たちの本当の意味での〈安保世代〉の存在を見たい。
 では、どういうプシコ・イデオロギーで安保にかかわったのか、この点が大切であろう。
 この著書は安保世代の、その後に向けての闘いの一つ、自分たちの分担課題意識において展開された闘いのひとつとして、位置づけられよう。そこには、コミュニケーション理論としての、第二信号系理論をベースにした対話論が展開され、〈内なる仲間〉〈内なる対話〉がはっきりと位置づけられている。それは、今、流行の対話論とは大きく異なる。現在の対話論は、最近のアメリカ哲学の影響を受け、いかにして討論で相手に勝つかという討論技術を身につけるためのハウツーであり(debateの訳語としての対話)、人間と人間とのふれ合いとしてのダイアローグ(内なる仲間を認めたところで展開される)ではない。こうした発想は、破壊、解体、ひいては歴史の否定を事とした全共闘世代からは生まれいないものであろう。
・1973年 『芸術の論理』刊。
・1978年 『井伏鱒二』刊。
 井伏文学の三期説(文学史1929)は、相互主観性の相手の推移にかかわる、作家その人の文学的イデオロギーの深化を捉えようとする立場に基づくものであり、他者との対話を拒否して、すべてを個人に集約させてしまう全共闘世代の発想からは生まれえないものである。

(まだ続きがあります。次号へ。)


1989/06/10 403

5月第一例会 報告(つづき)
 M.M.

文学的イデオロギー概念の提起 (S.T.報告概要 承前)

★ ところで、文学的イデオロギーの概念についてであるが、これまで、イデオロギーとしての文学と、文学的イデオロギーによる文学の両方がある、と見てきたきらいがある。これを個別に考えるのではなく、〈イデオロギーとしての文学における文学的イデオロギー〉として捉える必要がある。今次集会の“文学的イデオロギーとしてのリアリズム”というテーマは、新しい問題の提起である。世の多くの文学研究・評論には、この観点が全く欠落している。
 文学は、文学的イデオロギーによって書かれるものであり、また、文学的イデオロギーによって、対話し対決するかたちで読まれるべきもの。――そうした読みによってアピア(顕現)するものこそ、文学的イデオロギーにぶすびついたダイナミック・イメージなのではなかろうか。これはスーザン・ランガーを大きく超える概念であり、第二信号系からみちびかれたすぐれた概念である。

★ ふり返って、研究史の中に大きく位置づくものとして、歴史社会学派と、さらに遡って蔵原(惟人)理論に注目したい。
 近代の文学は、作家、読者のどちら側から見ても、プチブル文学であった。プチブルの、文学的領域における一つの反映として、社会的発展段階に即したイデオロギーの前衛性、革命性をみていく必要がある――、という、この蔵原理論を、熊谷理論は継承・発展させている。
 文学の担い手、近代文学の担い手はプチブルであり、そのプチブル性を見ないでは何も語れない。それも、即自的なプチブル階級云々ではなく、本来の階級意識はどういうものなのか、それを超えるための問題を考え合おうとしている。プチブル性に徹することで、そこから抜け出ようとする人達の文学を、教養的中流下層階級者の視点に立つ文学として位置づけている。その視点こそ、社会・歴史的に、文化面における文学的イデオロギーとしての前衛のよって立つべき視点を見出してきた。そこに焦点を当てなくては、何も見えてこないのではないか。「中流」「消費社会」「ニューリッチ」の“ルンルン気分”という、そんなプシコ・イデオロギーでは何も見えてこないだろう。
 世代として自己を把握する、自己を凝視し、自己否定を続けることなしには、ありうべき文学的イデオロギー、ありうべき世代意識は生まれえない。〈文学的イデオロギー〉の提起は、単に、新しい概念の提起に止まるものではない。文学を本来の文学たらしめるために、最も戦闘的で、有効な概念として生まれ、出されたものであろう。


プチブルであること、その社会史の中の役割を自覚しよう
 この後の意見交換の中で、熊谷先生から次のようなご指摘があった。

★ 歴史社会学派の近世文学史論は、蔵原理論のまっとうな継承によって、従来のそれとは全く違ったものになった。新興町人論は、近藤忠義氏からの受けつぎである。
 しかし、三木(清)哲学(中間者の哲学)の悪影響の下で、プチブルを中間層とみるつかみ方に変わっていく。支配階級、被支配階級のいずれにも属さない中間者の存在が、文化の創造者として、文学史に位置づくことになる。その中間者の生み出したものが、仮名草子である、という論の立て方に変わってゆき、階級が忘れられていった。と同時に、研究・実践者として、自己の主体を検討することもおろそかになっていった。
 近世文学、戦後文学を問わず、扱う自己の階級性をはっきりと確認しよう。そして、その階級性ゆえの担い得る社会史の中の役割を自覚しよう。その文学を扱う自分と同様の歴史的相似性における対象として、西鶴世代……を考えてゆくことを課題としてほしい。

――今日の例会は、どの内容をとりあげても、すべて自己凝視を迫られるものであった。出来るかぎり多くの課題を主体化するべくとりくんでゆきたい。


5月第二例会 報告 S.F.

「西鶴のリアリズム――その二側面」 「忍び扇の長歌」の検討 
 T.M.、A.Y.さんを中心になされた報告をめぐっての検討の中で問題になったことのいくつかについて、アトランダムに書きつけてみる。

@ 新興町人二代目の視点
――前期資本における説話文学としての仮名草子に対して、常の町人としての新興町人二代目の眼でとらえたものが浮世草子である。蔵原惟人のプチブル論の展開の中で、それとの歴史的共軛性においてとらえたとき、新興町人二代目の文学としての西鶴文学がつかめてくる。それは近世文学として、個(近世的な個)の自覚、個の回復の文学として位置づく。

A 「忍び扇の長歌」における二度の逃亡――姫二十あまりというのは、当時としては大変な晩婚になるわけであるが、そこには、自分が愛せる男を待ちつづけてきた一人の女性の教養のあり方がうかがえる。そして、長歌で互いに通じ合える男の教養も。ところで、二人の愛は逃亡という形でしか成立しないし、みつかれば、男は即刻打ち首である。その状況の中で必死に生きる姿として、姫が洗濯で日銭を稼ぐ様子が描かれる。結局捕まって、男は打ち首。姫は自害を強要されるが、「自分に不義はない」と自覚したとき、自害ではなく、さらに逃亡という道を選び尼になる。個の自覚に立った精神構造と行動様式に、新興町人の在り方を感じる。それに対して、姫の大切なものを次々に踏みにじっていくどす黒い大戸のの在り方も見えてくる。

(以下、次号へ)



1989/06/24404

5月第二例会 報告(つづき) S.F.

「忍び扇の長歌」の検討

B 西鶴文学の俳諧性
――西鶴文学の俳諧的表現は、西鶴俳諧が西鶴浮世草子へと展開する中で、省略できる限り省略するということで、すぐれた描写文体として定着している。説話文学から浮世草子へということは、西鶴俳諧の俳諧性の否定ではなくて、西鶴の浮世草子に俳諧性を生かすことである。俳諧を媒介にしての説話文学から浮世草子へ、と規定できる。

C 個の自覚――姫の意識は、行動する中でつかみとってくる、それである。初めから、「不義ではない」という意識があったわけではない。人間として生きぬく時、見通しはないが、心の通じ合う男と逃亡し、生きるためには、他人のものも洗濯するということから、「女の男ただ一人持つ事これ作法なり。あの者下々思ふは、これ縁の道なり。」と言い切る。そこに新興町人のあり方を感じる。近世的個の自覚がある。近代的な個とはちがうが、そこには近世小説の誕生が見られる。“人は化け物”として、まわりからは理解できない存在として描かれる。わからないから書く、わかり切っていることは書かないという近世小説のあり方が問われる。


6月第一例会 報告 H.M.

「忍び扇の長歌」の検討
 前回の例会のまとめをT.M.氏が行なった。

@ 「忍び扇の長歌」は近世小説の誕生を意味する作品である。『大下馬』の他の作品は説話文学の域にある。8年ほど前の合宿(1980年冬、81年春)ですでに指摘されていたように、たとえば、「残る物とて金の鍋」などには、小説としてのモメントやファクターがそろってはいるが、それはやはり、観念と行動の未分化という、いわゆる共同体意識を前提にした作品になっている。観念と行動との乖離や分化が必然的に小説というジャンルを要請することになるのだが、「忍び扇の長歌」の姫や男の意識と行動――その教養のありようと個の自覚――は、説話文学の枠からはみ出している。

A 西鶴の小説の特質として、複眼で重層的に人間を把握していることや、一貫したキャラクター(常の町人二代目の個性)が与えられていることなども、やはり以前指摘されていたが、説話文学から小説へという西鶴文学の展開を考えるとき、「忍び扇の長歌」は重要な位置を占める。

B 前回、新興町人が(広い意味でのプチ・ブル的な存在が)生み出したものが近世小説であることが明らかにされた。そして、現在私たちがどの階級に属すかということの自覚に立って、ジャンル論を深めるべきこと、その際、常の町人二代目の西鶴世代と、私たち自身の立場との共軛性に目を向けることが大切であることが確認された。

○ 話し合いの中で熊谷先生から、西鶴文学の展開において、俳諧はどう位置づくのか、という問題提起があり、次のような指摘がなされた。即ち、近代小説と異なる近世小説としての西鶴の小説の特質は、俳諧性を抜きにして考えることはできない。西鶴といえば、何でも俳諧性と結論づける安易なやり方は大いに問題だが、しかし、俳諧的手法を問題にすることなしに、西鶴の小説の手法を語ることはできない。談林俳諧の笑い(俳諧性)を乗り越えていくところに西鶴のすばらしさがある(これは従来の近世文学史への反論である)。つまり、俳諧を媒介にしての、説話文学から小説へ、ということである。「忍び扇の長歌」のタイトルも俳諧性を生かしたものであり、さらに本文ではそれを越えている。


「百三十里の所を十匁の無心」の検討
 初めにI.M.氏から次のような報告があった。

@ 西鶴の主体を通しての近世小説の成立過程が、「忍び扇の長歌」から「百三十里の所を十匁の無心」に見られる。近世小説としての深化がそこにある。
A この作品にも俳諧性が感じられる(タイトルなど)。
B この作品には明日のない人間の疎外し尽くされた個が描かれている。
C 源右衛門のメンタリティーが書簡体という形式を通して、町人の言葉で描かれている。
D 書簡を選んだ人間(序文にある、高津の里の人)の感想が後注として記され、生きた人間同士のメンタリティーの相互照射が可能になっている。
E 常の町人二代目としての、西鶴世代の視点的立場の明確化が見られ、1690年代の西鶴文学の達成点を示している。

(以下、次号へ)


1989/06/24 405

6月第一例会 報告(つづき) H.M.

「百三十里の所を十匁の無心」
 I.M.報告を受けて、多くの発言があった。私なりに要約すれば、次のようになる。
  (略)
(6) この作品の作中人物には、経済生活的に明日がないだけでなく、精神生活的にも明日がない。「人には棒振虫同前に思はれ」の場合、精神的には明日があるし、「南部の人が見たも真言」見も、死後の世界でのことではあるが、明日が感じられる。源右衛門たちのプアな姿、しかし、これが町人たちの現実なのだ。利左とも、こよし ともちがって、インテリジェンスのない人物を徹底的に描いている点に、この作品の特徴がある。(熊谷)
  (略)
(8) 絶望するしかない現実に目をそむけずに書いている作品だ。「忍び扇――」にはロマンチシズムがいっぱいだが、この作品は全く違う。救いがない。しかし、ロマンチシズムがないに等しい作品のリアリズムということを検討する必要がある。リアリズムの二側面の問題として――。短編であること、俳諧的手法(笑い)を生かしきっている作品であること、など。(熊谷)
  (略)
(10) 「十二三も年寄」の女房だとか、「銀拾弐匁か銭一貫」とか、最後まで俳諧(連句的俳諧)の精神が貫いている。そのため、源右衛門にどこか憎めないものを感じる。(熊谷)
  (略)

 こうした話し合いを通して、「たんに俳諧から浮世草子へでなく、俳諧を媒介にして説話文学から浮世草子へ、ということであることが明らかになり、西鶴の俳諧(すべてがいいわけではない)を再検討する必要を痛感した」(T.M.氏)次第である。それとともに、「近世小説の骨格が『忍び扇――』と『百三十里――』の二作品を通して見えてきた」(Y.R.氏)との実感もまた、多くの人のものになったのではないかと思われる。



1989/07/8 406

6月第二例会 報告 Y.R.

大岡昇平『野火』と石川達三『熔岩』と
 全国集会まで、あと一ヶ月ちょっと。時のたつのはほんとうに早い。うかうかしていられないな、と感じさせられた例会であった。『野火』と『熔岩』。文学の科学になり得る読みとは――それを模索しつつ、それを目指して読み合いましょう、とN.T.氏。いわゆる評論家たちは、発想と文章とを分けて考え、そのあげく、『野火』は“人肉喰い”がテーマなのだという。そうしたとらえ方を真に批判できる読みを、という呼びかけから例会が始まったように思う。

 K.T.氏は『野火』の実際の文章に即しつつ、その魅力とともに私たちに訴えかけてくるものが何なのかを話された。あくまでも“私”という人間の感覚をとおして、目に映り耳に響くものが描写されることで、戦争の現実が読者に迫ってくる文体。そして“私”は絶えず自己とむかいあい、“偶然”をとらえ直すことで問題を深めていく。そして、29章「手」の場面での“美しい左手”に象徴されるような、極限の場面においても、なお持ち続けている人間としての誇り、尊厳。そこに感動を覚えたとき、今の私は、私たちはどうなのだろうという問い直しを迫られる。精神病棟にいる“私”は今日なお“野火”を見る。単行本での発行は1952年、朝鮮戦争のただ中。私たちは、私たちの生きている目の前の現実に、果して“野火”を見ているのか――。

(中略)

 そして続けてS.A.氏が石川達三の『熔岩』を報告された。入江進二郎と裁判長との何とも奇妙でおかしいやりとりに、思わず笑いながら、ドキリとさせられながら読んでいくうちに、狂っていないと思っている人には見えてこない戦争の現実が見えてくる。しかしまた、入江を狂わせ続けているものは一体何なのか、それは今どうなっているのか。
 S.A.氏はまた、『日本人の自画像』(熊谷孝著)において、マイ・ホーム主義第一号と名づけられたような、入江のもつ、ある限界――結局、体制に順応していくような面を、もう少しつめて考えてみたい、それが『野火』の“私”との違いでもあろうか、という問題を、ご自身の疑問点として提出された。

 以上の報告をもとに話し合いに入ったわけだが、作品の文章に即しての話し合いを前提にしつつ、読みの構え――『野火』と『熔岩』、それぞれの作品の個性をどうつかんでいるのか、また、作品相互の関連をどうおさえているのか、ということがまず問題になったように思う。
 フルコースの料理とお茶漬け、そんな比喩で熊谷孝先生は話された。ある完成度をもった『野火』と、「小説新潮」に載ったということに、あるみあい方をしている『熔岩』と。私たちの内側で、同じ時期に共に戦争の現実が描かれている二つの作品ではあるが、フルコースとお茶漬けなのだから、フルコースの方が上、という感じかたをしていないだろうか。短絡すべきではないが、近松と西鶴を考えるときにはそんな考え方を否定しながら、『野火』と『熔岩』にそうしたランクづけをしているのではないのか。
 また、自分が担当した場合、お茶漬けを、それとしてではなく、フルコースのように仕立てあげてしまったりしてはいないだろうか。それでは、その作品の個性が死んでしまう。おいしいフルコースが食べたい時、うまいお茶漬けが食べたくなるとき、つまり、お茶漬けだから、フルコースだから、というところに、上下などつけられないのだ。例えば、うまいお茶漬けとしての『熔岩』。この作品でなければ描けなかったこと、つかめない側面を、作品を生かすかたちで真に媒介することが必要なのである。

(中略)

 また、この二作品を、リアリズムの二側面として、別の側面から切りとったリアリズムとして、その質を明らかにしていく、という視点が不可欠であることも確認された。そして話は『熔岩』との関わりの中で、西鶴の喜劇精神について進められた。喜劇精神とは、その笑いとは、をこの際つっこんで考えてみませんか、という熊谷先生の提案だった。作品評価の際、“喜劇精神”というレッテルをはるだけで満足したり、部分部分のおかしさを単によせ集めて、それを喜劇精神と呼んでみたり、ということでは仕方がない。トータリティーにおいてつかむことが必要なのである。
 例えば、いわゆる“ドタバタ”は西鶴の作品の中にもある。チャップリンの映画がそうであるように。しかし、それはトータルとして、何の為の手段(ドタバタ)なのか、が問われなくてはならないだろう。笑いを媒介として、怒りや涙がわいてくる。俳諧の笑いをアウフヘーベンして、喜劇精神の笑いに高めた西鶴。

(中略)

 大きな課題と、楽しみがこの例会でのお土産となったように思う。



1989/08/03 407

7月例会 報告 T.K.

「きみは『君が代』を歌うか「教科書はだれのものか」―講演二題―
の検討を行なった。
 冒頭、司会のY.A.さんは、プログラム中の位置づけについて次の点を確認しようと提案した。
 @ これらの講演は、今集会のテーマである「鑑賞体験をモチヴェートする読みの理論への要請」ということを前提としての〈教育時評〉であること。
 A そうした理論への要請を妨害する今日の教育や教育行政のありようへの、〈教育と文学〉〈文学と教育〉の視点的立場からの徹底的な批判が両氏の論点になるだろうということ。
 そしてなによりも、「講演二題」の提示する視点を繰り込むことによって、わたしたち集会参加者 の、この集会のテーマ的課題へ向けての思索に幅をもたせていくことが大切である、と訴えた。

「きみは『君が代』を歌うか」 S.F.
 
S.F.さんはまず、『君が代』の元歌となった詞章の成立過程を、 そしてまたそれがうたい継がれてきた土壌(民衆的にある広がりをもった土壌)を、古代歌謡・『古今和歌集』以来の流れの中で明らかにした。「君が代」は天皇の御代を意味するとは限らず、それが一般的に「対者の年寿」を指す語であることをはっきり押さえておくことは、『君が代』の歴史を見 ていく上でとくに重要であろう。
 『君が代』の歴史については、次のような点が指摘された。

 (1) 明治十年代までのいわば「導入期Jには、『君が代』は実際に演奏されることはあっても、国歌としての位置づけがなされていたわ けではない。明治十五年の国歌制定論議においてさえ『君が代』は対象から外されている。

 (2) 明治憲法施行後、絶対主義的天皇制の成立の中で、『君が代』は「御真影」とともに学校教育の中に入り 込んでくるわけだが、しかしそれも「祝日大祭日歌詞並楽譜」八編の冒頭に示されているにすぎない。「国歌」としての明確な法的根拠をもたないものであった。

 (3) 二十年戦争下、国民の思想動員 という目的のために、よりはっきりした役割を背負わされることになる。「修身」の教科書の中ではすでに、『君が代』の「君」は天皇のことであると恣意的な「解釈」がなされている。国家権力のも とで教師の果たした投割を忘れてはなるまい。

 (4) 戦後GHQによる禁止とそれに次ぐ解禁という経過を経て、やがてまた指導要領の中に『君が代』が登場してくる。それが更に今度の改訂では「国歌」 と明確に規定され、それが強制的に歌わされることになる。

 そこで最後に、現代の問題として、日本国憲法の主権在民の考え方と『君が代』の「主権在君」的志向との矛盾を露呈しないために試みられている二つの「解釈」、すなわち天皇は単なる象徴ではなく国家元首であるから「君」は天皇でよいのだとするものと、新天皇を戦争には無関係の「民主天皇」とすることで、「君」を天皇と限らず広くとらえようとするものとがある、との指摘があった。戦前の「解釈」とは異なるこれらの「解釈」を根拠に今また『君が代』を歌わせることへの新たな強制が始 まろうとしている。そのように常に「解釈」によって事を処理していこうとする発想・姿勢そのものに対する根本的な対決を促す講演内容であった。

「教科書はだれのものか――学習指導要領について」 H.M.
 教科書をめぐる最近の動きは、国家統制がいっそう進行しつつあること、一方それに対する反対運動が例えば検定結果の一部公表という形の妥協をかちとったことなど、このところますます顕著になっている。そのことをふまえながらH.M.さんは、昨年十二月以来次々に出されている「教育課程審議会答申」「新学習指導要領」「教科用図書検定規則・基準」の宿す問題点を次のように指摘する。

 (1) 文学教育を外した言語教育重視路線は従来 から一貫しているが、くわえて情報化・国際化等、変化の著しい社会に対応できる「態度」や「能力」の重視がうたわれている。しかも求められているのは、現状に適応する「態度Jであり、追体験的に理解する「能力」でしかない。

 (2) 「教材J選定の基準がより厳しくなった。一度引っ込められていた教材選定の「観点+項目」が復活したことは注目に値する。「教科書検定基準Jでも、指導要領に照らして「不足なく取り上げていること」・「不必要なものは取り上げていないこと」と両面から攻めてきている。

 (3) 「教科書検定規則」で大きく変わるのは、合否の決定までのプロセス。いわ ば一回勝負ということになるのだから、出版社側の自主規制が強まるのは必定。

 (4) 検定を経た教科書について文部大臣が訂正勧告権をもつということになっているが、これは最悪。

 次に、教科書採択の問題。小・中学校では徹底した広域採択、高校では担当教師の「個人採択」と いう一般的状況の下で、教師には、教科書は与えられるものであって、吟味するものではないという 感じがますます強まっているのではないか。検定による画一化と採択の広域化によって、教科書出版の寡占化はますます進み、行き着くところは国定化ということにならざるをえない。

 その他、わたしたちは今何をすべきか、何ができるかという観点から、次の諸点にも触れた。@ 教科書裁判で最近高裁が下した判決は原告側に厳しいものだったが、例の杉本判決やそれを受けついだ 畔上判決を内容的には覆していない。その点は、今後の教科書検定批判運動の重要な足掛かりとして 大事に見ておく必要があるということ。 A 日教組教育課程検討委員会が最近出した資料の「読みの教 育」の部分を見ても、依然、客観主義的な読みをよしとするところから一歩も出ていず、文部省の出してくるものと理論的に対決しうるものになってはいないこと。 B自分自身、教科書編集に関わること を、一つの運動として位置づけていること、等々。

■つづく討論の中で出された確認や注文の中から、いくつかを以下にあげておく。
 (1) 仮に今の政治行政・教育行政に対する反論であるにせよ、単に観念的に反対のための反対をしているのではない、この発言にはこういう根拠があるのだと、その学問的根拠をはっきり出そう。文学こそ政治、教育こそ政治だという意識で。

 (2) と同時に、目的はあくまで現実の問題、そして実はリアリスティックな問題にあるということを忘れまい。そこを抜きにするとこのプログラムは成り立たない。

 (3) 一歩でも半歩でもまともな方向へというのは大事なのだが、本来こうあるべきだという線出してほしい。戦後史の現代の中で『君が代』を歌わせる、歌わせるようになるということは非教育的、反教育的だ。歌わないことが、本来あるべき姿。その「本来」のところに焦点を置いて筋を通す、そういうことを話してほしい。効果が上がろうが上がるまいが、われわれは文学教育の学会だ。学問的にはこうだというものを、しつこく訴えて行く必要がある。

 (4) ’58年度版学習指導要領の批判からスタートした文教研が、その後一貫して指導要領の「適応の論理」に反対し続けてきたことを念頭に置いて話してほしい。

 (5) 取り上げられた資料に共通して窺われる解釈学的な「適応の論理」、これと真っ向から対立するものが「リアリズム指向のロマンティシズム」であろう。そのような一番根本のところを強調してほしい。 

 (6) いかによりよい条件の下であれ、今のシステムの中で作る限り「プティ国定教科書」にならざるをえない。教科書は本来こうあるべきものだ、ということを文教研は30年来変わらずに言い続けてきている。それが文教研の存在理由であろう。極端に言うなら、教師の数ほど教科書があっていい。話し手自身の教科書観に基づいて、まず現時点で絶対のものをはっきり出そう。運動のしかたによっては通るものと通らないものとあることは言うまでもない。

 (7) 「教材」は、あることを実現するための材料だ。目的に合わせて組み替えていくべきものであろう。「自主編成」……個人では限界がある、そこで集団で考えようというのだ。今問われていることは、「自主編成」の根底になるべき文学の理論なりを手中にもっているかどうかということだ。

 (8) 「文体づくり」ということが、いま「鑑賞体験」「文学的イデオロギー」の問題として深められ、とらえなおされてきている。そのことをふまえる必要がある。



1989/09/23 408

9月第一例会 報告 

「明日へ向けて 文教研理論の形成過程をさぐる」

1. 年度始めに当たって、私たちが今年度の年間研究テーマとして考えているのは、〈文学の科学としての文学教育論――その理論的体系化の道筋ををさぐる〉ということである。また、そのための〈文教研理論の形成過程のたどり直し〉という課題の設定である。つまり、このことが、第1期・第2期のこのの研究計画のテーマを示すタイトルとなるのである。

2. あえていうが、〈文学教育論〉という上記の作業分野を、一貫して〈文学の科学〉の重要な側面領域であることを主張しつづけて来たのが、私たち文学教育研究者集団である。そのことは、別紙に記す〈文教研・全国集会統一テーマ一覧〉を目にすることで察せられよう。

3. ところで、上記のような集団の統一見解が、集団の構成メンバー個々人の学問実践・教育実践にどう反映され、どのように生かされて来ているか、という点の自己評価は各人まちまちだろう。集団と、それを支える集団の中の個としての自己の学問実践のありよう、教育実践のありよう。集団も創立30周年、数字にこだわって言うのではないが、今年度はそのへんのことにこだわって研究作業を進めたい。

4. そこでまた、たとえば、これまでの全国集会への各人の取り組みの姿勢についてである。集会の統一テーマを、(集団の中の個人として)各人が自己のテーマとして取り組んで来ていただろうか、ということなのである。今年度の全国集会への取り組みについては、少しくそのへんのことにこだわってみたい。
 そのことの前提としてまた、月例研究会へのお互いの参加の姿勢について提案がある。ヨロイを脱ぎ、防弾チョッキを身につけないで、ナマの意見を交流させませんか、ということである。(座談精神を持とうじゃまいか。どこからつかれても大丈夫、なんていう時にモノを言うのではなく、ざっくばらんにぶつけ合おう。)



1989/10/14 409

9月第二例会(9/23) 報告 K.T.


第1部 『芸術とことば』以前――文教研前史

 現在の研究のとりくみをはっきりさせる目的で、F.T.氏、A.Y.氏を中心にさまざまな話題が提出された。文教研の出発点と初心を確かめることになったと思う。以下、メモふうのまとめである。

○文教研の結成まで
熊谷孝編著『十代の読書』 1954.6
   ・読書サークルをもとう。→サークル広場の会(A)
熊谷孝著『文学教育』 1956.11
   ・「文学教育」という概念の本は戦後初めて。多くの人に衝撃を与えた。
   ・出版記念会。その後対立した人々も参加した。
   ・ここだけで終わりにするのはもったいない。これを機に全国組織を作ろう。→文学教育の会(B)

(A)+(B)→さまざまな分科会 理論部会
                     
      1958.10.16サークル文学と教育の会…………研究集会のことで意見が食い違う。
                     14まで)     常任委員をやめ、結局脱会する。
                                          ↓
      1960. 2.26文学教育研究者集団        いわれなき批判(分派主義?)
                       (15から) 
                       第1回研究集会(小金井)
                        *は機関誌「文学と教育」

○「文学教育の会」から離れたことに関連して
・研究集会のテーマとして、「芸術的認識」とはどういうものかという問題を真剣に提起したが、S氏たちに全く受け入れられなかった。
・そのテーマを掲げた根本は、新指導要領批判にある。指導要領の芸術理論・言語理論では真の文学教育・国語教育はできない。認識論の問題から理論的根拠をもって文部省をくず図のは、民間団体がやるべきだ。
・「文学と教育の会」にはさまざまな人がいた。文学教育についても、、変革の機能においてとらえる人もいれば、指導要領の枠組みで考える人もいた。
・S氏には現場主義的な発想があった。そんな角度で問題にしても現場の人間はついてこないと言うだけで、真剣な提起に真剣に答ない。
文学教育を学校教育の中に位置づけることがどんなに必要なのか。その復権のためにどういう視点が必要なのか、というのが私たちの意識だった。
・昭和33年の指導要領では「文学教育」のことばすら消された。文学教育をはずすわけにはいかない。その概念を確立すべきであった。

○「国語教育としての文学教育」について
・良心的な児童文学者から、文学を国語教育の中に押し込めていいのか、という主張があった。確かによい意見だ。
・人間の教育に文学ははずせない。国語教育としてばかり文学教育があるわけではない。同時に、国語教育の中でも文学教育ははずせない。それが「国語教育としての文学教育」という提起なのである。
・言語教育か文学教育か、という二元論的なものではない。国語科の仕事を、いわゆる言語に絞るのは恐ろしい。
・まるで外国人に日本語を教えるようなカリキュラムがあるが、子供は白紙の状態で入ってくるのではない。すでに言語体験がある。

○文教研の「初心」にふれて
・学校教育の中に文学教育を位置づけると同時に、明日の民族文化創造の基盤を確かなものにする。その仲立ちが我々の任務だ。
・自分にとっての文学をもとう。自分を鍛えていくことが媒介者の条件だ。
・我々に必要なのは、どういう立場の文学・文学教育なのか。
・読者をはぐくむことなしに新しい創造はない。
・教師くさくなることを拒否して、私たち自身が文学を必要とするような人間になろう。


第2部 『芸術とことば』以後 〔全員作業〕

 各人の入会のいきさつ、文教研のどんなところにひかれたか、印象に残っている研究会、今どんなことを学びたいか、などが話し合われた。(具体的な内容は次号に。)



1989/10/28 410

9月第二例会(9/23) 報告(続き) K.T.


第2部 『芸術とことば』以後 〔全員作業〕

○1980年代に入会しました 
(固有名詞を省略して、各メンバーのコメントを列挙した。)
・文学が好きだという気持ちと、もう一方に自分の社会の見方や社会運動があり、それが切り離されていた。そういう自分を切られるのが怖かったが、入会後それが自分の中で整理されていくのを感じた。読者を育むことの大切さを実感する。

・文教研を知ったのは『芸術とことば』。読むたびにいろいろなことを教えられる本だ。特に第二信号系の理論を勉強したいと思った。文教研理論の源泉の一つだからだ。

・それまでの自分の読書とは全く違っていた。感動が生まれる読み方だった。わからないことはたくさんあったが感じるものがあった。

・以前、日文協に出入りしていたが、そこにはほんとうの理論がなく、自己変革と結びつかないものだった。文教研の全国集会は新鮮で、文学史のとらえ方に感動した。今ふり返ると担当した報告が部分主義になっていて、テーマの流れをつかめていなかった。

・入会して二年くらいたってノートのとり方が変わった。それまでは課題がつかめていなかった。文学教育は発想を鍛え直す場だと思う。今、教師になって、ほんとうの意味で理論が必要だとわかった。

・中学時代、解釈学で自分の内側がこわされる思いだった。高校のとき文教研と出会ってショックだったのは、創造の完結者は読者だということ。それは求めていたものだった。今は、『手帖』(注:文教研の仕事として刊行した『芥川文学手帖』以下3冊の「文学手帖シリーズ」)のような文章が書けるようになろうと思う。

・足場がない状態の中で何かひかれるものがあった。文学を文学として読むことに面白さや魅力を感じて入会した。主体化できてない自分を鍛えていかなければ。

・初めての出会いで、人間らしく生きることへのはげましを受けて感動した。しかし今、文教研の理論を固定した「答え」のようにしてしまっている自分がいて、反省している。これでは変革とは言えない。「私が文教研」だからこそ。

・熊谷先生の『トカトントン』のお話に感動した。初めの頃はパニック状態で(例会等から)帰った。今年の集会で作品の印象をグループで語り合ったのはすばらしい経験だった。

・自分の課題意識はまだ鈍いと思う。文教研との出会いで新しくひらけた世界があったが、まだ自分の現実のあり方が違っている。自分をかえていかなければ。

(熊谷先生の)「中流意識の幻想性」の講演は衝撃的だった。『山峡風物誌』に感動したといいながら中流意識に安住していたと思う。大学に入って、最初は友人との接点が見えず、文教研の考え方と違えばダメだという固定した考え方がどこかにあったが、最近は彼らの悩みなど見えなかったものが見えてきた。

・『葉』の「咲クヤウニ。咲クヤウニ」への感動がきっかけだった。今までは感情だけできたが、今回文教研の歴史の中にいることを確認した。全国集会に向けて作品をあたためている姿を見て、ぜひ自分もパートに入れてほしいと思う。

○1970年代に入会しました (固有名詞を省略して、各メンバーのコメントを列挙した。)
・自分なりに社会科学を学んでいて、その課題意識と触れあって参加した。毎回の例会が刺激的で自分の生き方の支えになった。定時制に移ってなかなか思うようにいかないが努力したい。文学と科学についてももっと考えていきたい。

・作品評価が自分自身の人間評価と不可分であることを否応なしに感じた。鴎外研究の「常識」にどっぷり浸かっていたので、最初は文教研の方が特異だと思った。周りの状況は変わってない。ここで学んだことを周囲に返していかなければいけない。

・「文体づくり」という発想・視点をさらに深めていきたい。ここを失うと文学教育において何が課題なのか見えてこない。文教研の文体論もジャンル論も「文体づくり」という視点で相即的にとらえたものだ。

・太宰の総合読みをしていた頃入会。一応読んではいたが全然違っていた。場面規定をおさえない限り読んだことにならないのを実感した。そういう視点がなかった。文学の眼を育むのが教師の役割だということにとてもひかれた。

・一つ一つの作品を丁寧に読んだ時期に入会したので、作品を読むむずかしさや楽しさを味わう経験をもっている。自分を鍛えてその経験をもっと生かしていかなければ。自身に文学を必要とする人間でありたい。



1989/10/28 411

10月第一例会(10/14) 報告 
T.K.

第1部 私と文教研('60年代)


 第1部では、前回に引き続いて、めいめいの文教研入会のいきさつや印象に残っている ことなどが、'60年代入会者を中心に話された。「文教研の初心とは何かということを明確にするための全員作業」(N.T.)としてである。

 '60年代には、『芸術とことば』をはじめ、『言語観・文学観と国語教育』『文体づく りの国語教育』(以上、熊谷孝著)、『文学の教授過程』『中学校の文学教材研究と授業過程』『文学数育の構造化』(以上、共同執筆)などが刊行されている。その時どきに提出される新しい理論との出会いの印象がいかに強烈であったか、そして新著をテキストに しての討論がいかに熱を帯びたものであったか、などについて口々に語られた。以下に記すのは、その内容の一部である。

 「たんに学ぶ楽しみということにとどまらず、自分の生き方にかかわるところで受けとめた。『言語観――』は最も自分の支えになっている本だ。例会にも熱気があった。今それだけの熱気が見られるだろうか」(S.M.)。『文学の教授過程』の編集に没頭していた頃を振り返ってみると、皆の中に、これがやりたくてたまらないという要求が強くあった。それは、少人数だからという理由だけではなかったと思う」(N.T.)。「第二信号系理論に ショックを受けたことを契機に自らの言語観・文学観の問い直しが始まった」(S.A.)。

 入会時において何が最も強く印象づけられたかは、当然ながら人によって異なる。「読みの三層構造(前-中-先)」「文体・文体づくり」「想像・虚構・典型」、それに「発達に即し発達を促す」「自主福成」……。しかし、各報告に共通していたのは、文教研理論のそれらひとつひとつの断面に出会うことによって得た鮮烈な印象と、自己の発想に根底からの変革を迫られる実感とを始発点として、各自の文教研活動が始まり今日につながっているということであった。それにまた、熊谷先生が手書きのレジュメを一人ひとりに配布して話された哲学史の講義を通じ、認識論と存在論の二大潮流のうち私たちがとるべき立場は認識論のそれであることを教わったときの感動や、必要とあれば戸板潤の『科学論』『日本イデオロギー論』を学び合うための問題別研究会がたちまちに組織されたという、かつての文教研が持っていたよき一面などについても語られた。

 若手会員からの「その頃の例会のイメージがどうもはっきりしてこない。だいたい、現在のような研究プランは無かったのか」という疑問に対しては、文教研の神話時代・英雄時代(エルム荘時代)のメンバーから興味ある証言があいついだ。――本の編集に当たっているときなど年間を通じてそれだけに掛かりきるというように、必要なところに必要な だけ時間を使うというやりかたであった。討論の場で酒瓶が巡回する図も珍しいことではなく、アルコールがまわるにつれ、ますます議論が鋭く深まっていくというのが常であっ た。時間を忘れ、つい終電に乗り損なうこともしばしば。S.F. さんが、空を仰いで発した 「雨が……」という言葉も軽く聞き流され、濡れ縁でずぶ濡れになりながら討論に参加したという“S.F.事件”の伝説は、この時代の集まりの白熱した雰囲気をよく伝えている。

 熊谷先生から受けた論文の添削指導がどれほど懇切丁寧なものであったかという紹介(F.T.)に次いで、例えばある課題意識を持ったときに何百頁の大冊を短時間で読破してしまう熊谷先生のすさまじいまでの“資料の食い方”・勉強の仕方に学び、それを少しずつでも自分のものとしていくことを目標にしていきたい(A.Y.)、という話でこのパート を終えた。


第2部 文教研のやってきたことと、これからの姿勢の確認

 1958年発足した文教研の最初の研究課題は「学習指導要領改訂案」(昭和三十三年版) の批判であった。その後1965〜67年の「国語教育」誌上での熊谷先生の教育時評、1967〜 68年、学習指導要領の新たな改訂の動きの中でなされた灘尾文相“国防発言”に対する抗議声明・署名運動など二、三の事実を拾い上げてみただけでわかるように、文教研の研究活動は常に現実とかかわり合いながら真に実践的であることを目指して進められてきた。
 各学園での自然発生的な全共闘運動の主導権をニューーレフトが握っていく1968年頃からの状況と噛み合う形で「連帯の回復」「文体づくり」ということが改めて提唱されてく る。「学生時代から、ニューレフト的なものの前に理論の面においてまで脆くも屈服していく大学人の姿を見ながら、本当の学問とは?という疑問を抱いていた自分としては、文教研の中で初めて自分の支えとなる本当の学問に出会えたように感じた」(S.T.)。

 先の「エルム荘の頃の会には熱気があった」ということに関連しての熊答先生の次のよ うな指摘は、私たちが立ち戻らなければならない“初心”として銘記すべきであろう。

(1) あの頃は“文化人(野蛮人の対義語)としてのルール”があった。その場面では控えたほうがいいということを、言わないでおくだけの文化性を皆持っていた。今そういうものが欲しい。ルールを守って、言うだけのことを言いあう会にしたい。自分の言っていることが、対象としている人に理解してもらえるような、言い方を工夫する。文化人としての相手に通じるような日本語で話すようにしたい。(このことを、より自分自身のものとするための討論が活発になされたが、割愛せざるをえない。)

(2) いい意味の読書力をつけたい。長いものを短時間のうちにこなしていく力をつけなければ駄目だ。例えば、難しいことだらけの戸板論文にしてもグサリとくるところがあるはず。それを読み取ってまとめていく。そういうまとめるための話し合いをすることには賛成だ。(戸板論文やいろいろな文学作品を、例会の中で一緒に読みあい、お互いどう読んでいるのかをぶつけあいたい、というA.T.さんの提案に触れて。)

 おわりに、たとえ実感であれ「難しい」という言い方をする前に、方向的につかめたところ・グサリときたところで対話しようではないか、それがマナーだ、とN.T.司会者から 繰り返し強調されていたことを、自戒を込めて特に書き留めておきたい。




1989/11/11 412

10月第二例会(10/28) 報告 
I.H.

 はじめに常任委員会を代表して、N.T.さんから、今後の研究課題ととりくみ方が、冬合宿までの例会の内容紹介とあわせて提案された。
 統一テーマは、「明日へ向けて――文教研理論の形成過程をさぐる」である。9月からの例会で、会員全員が入会した時期のことを語り、文教研のやってきたこと、そして、これからの姿勢を確認してきた。しかし、その中で文教研の積み上げてきたものを自分は十分身につけきれていないという声も、少なからず聞かれた。文教研の理論形成過程をたどる、そのことで、それを全員のものとし、現代を生きる私達の、そして文学教育の明日へ向けてのしっかりした足場をつくりたい。そういう積極的な提案であったと思う。

 具体的なプランとしては、総論・変形シンポジウム(「あそびの系譜」を中心に)を行なった後、戸坂潤の論文「所謂批評の『科学性』について」と、『文体づくりの国語教育』の中の「解釈学批判」を例会で読み合い、冬合宿では、『太宰治――「右大臣実朝」試論』を扱うことが提案された。以下、それらの連関と課題についての説明である。

 戸坂論文をとりあげた理由は次の二点である。
1.「自己の内なる解釈学」を克服するために。
・解釈学は、他人事ではない。
・第二信号系の理論をくぐっているはずの我々以上にきちんとおさえるべき点をおさえている戸坂論文。
2.「説明文体をどう読んだらいいのか」の共同研究の場として。
・ある一部をとって、これはおかしいと批判する部分主義ではなく、説明文体を印象の追跡で読んでいき、トータルとして何が書いてあるのか、つかむ。
・一人一人では、どうしても部分主義や、常識をふまえないおかしな読みに陥ったりする。立ちどまりながら要約をしてみて、お互いにそういう点をざっくばらんに指摘し合い、エッセンスをとる。

 戸坂論文で、印象の追跡とは何かをおさえた上で、『文体づくりの国語教育』の解釈学批判を読みたい。知らないうちに、読んでもいないのに、自分の中にとり入れている解釈学、ディルタイやヤスパース的なものがある。自分の中の解釈学のしっぽは、哲学史的押さえがないと気づかない。『文体づくりの国語教育』でのディルタイやヤスパースについての要約・媒介に学びながら、自分の中の何が克服しなければならないところなのかをはっきりさせたい。
 そこを足場にして、今後は、作品の中で「内なる解釈学とのたたかい」をすすめる。つまり、解釈学にすべらない読みを自分の中に定着させていく。その導きの糸として『太宰治――「右大臣実朝」試論』を読みたい。そして、鴎外の「あそびの精神」を受けついだ太宰治、『右大臣実朝』を我々のものとしたいのである。


〔変形シンポジウム〕明日へ向けて――文教研理論の形成過程をさぐる
司会:A.Y.  提案:熊谷孝  意見:N.T.  S.T.  K.K.

 課題とその研究の方向をより鮮明にするため、まず熊谷先生に話していただいた。(以下の要約には、他の方の意見も含まれています。不正確な点などありましたら、御指摘ください。)

私達(文教研)が鴎外文学にとりくんできたのはなぜか 
 “あそび”の系譜――森鴎外と太宰治

 どういう時期に、どういう(精神構造を持った)私達が鴎外文学のどういう面に目が向いたのか。1960年代半ば、60年安保の「負け犬」になった我々文教研は、仲間とともにどういう道筋で立ち上がっていくのか模索していた。その道筋を求めたとき、幸徳事件にうちひしがれ、うちのめされ、そして、また奮起した鴎外の作品に目が向き、そこから学んだ。幸徳事件以降、民衆の抵抗路線・武器をペンに求めた鴎外。そのペンによって描き出された作品(『青年』『雁』などを含む)はメンタリティーの文学だった。

(まだ続きがあります。次号へ。)



1989/11/11 413

10月第二例会(10/28) 報告(つづき) 
I.H.

〔変形シンポジウム〕明日へ向けて――文教研理論の形成過程をさぐる そのA
司会:A.Y.  提案:熊谷孝  意見:N.T.  S.T.  K.K.

 メンタリティーの文学――そこには、エレンブルグが語った「制度改革や政治改革のための闘争を組織していくことは大切で、しかも困難であるが、それ以上に難しいのは人間の意識改革(メンタリティーの変革)である」という課題意識につながるものがある。そしてそれは、「人間には、いろいろなたたかいの場があり、それぞれがもちろん大切だが、自分しかできないこと、自分の持ち場(文学)でやるべきこと をやらなくてはならない」という分担課題の自覚を生んだ。

 冬の時代の中で書かれ、大正デモクラシーを招来してくるメンタリテイーの文学と しての鴎外文学。その粘り強いたたかいの軌跡の中には、「民衆の息切れすることの ない抵抗精神の持続」を支えた“あそぴ”の精神が脈打っている。

 我々は、運動(たたかい)の中で、そうした鴎外文学を必要とし、そこから学び始 めた。そして、今、その“あそぴ”の精神を主体化することを求めているのではないか。
 そのために、これまでの鴎外文学へのとりくみとその姿勢を確認し、初志を思い出しつつ、前進したい。第39回の全国集会へ向けて、二十年来とりくんできた鴎外論を しっかりしたものにしていこう。  

 さらに、『文体づくりの国語教育』の第5部などを引きつつ、具体的に、とりくみ始めた当時の相互信頼と熱気あふれる状況が話され、そういう気持ちをくぐりながら、新しい会員の人達も積極的にとりくんでいってほしい、という素晴らしい呼びかけが あった。

 この後、熊谷先生のお話を受けて、さまざまな問題提起がなされた。
・ 安保世代と言いながら、自分の分担課題に対する意識は低かったように思う。主体をかけて現実をとらえていこうとしない人々に怒りを感じながらも、自分の中にも払拭しきれていない解釈学を感じる。安保体験を風化させないためにも、“あそぴ”の精神を。
・ 組合活動と教育活動、研究と教育活動を分裂させない。
・ 送り手だけでなく、受け手にも“あそぴ”の精神がなくてはならない。ガンベッタの兵(『太宰治』p.111) の幸福は、仲間の兵のすべてが“あそぴ”の精神の持ち主だったこと。文学的イデオロギーでつながり合う。その概念を生み出した必然性。
・ 少数でいい、自分の求める感情の持ち主がいると信じ、それにかける。「文学は普遍へのかけである。」鴎外の普遍は「負け犬」。からきている。勝っている(つもりの)人間には通じない。その通じ合いは狭いけれど、普遍の持つ力にかける。
・ 場面規定をおさえることの意味。文学を読むことが、現代をどう生きるかにつながる。それが、運動の中で研究をしていくということになっていく。
・ 解釈学にすべらない第二信号系の言語観を。
・ 典型概念を自分の中で確認したい。
・ 読者の意識のありようによってアビアするもの。本来の読者という概念の生まれた必然性と重要性。
・ 文学事象としての「幸徳事件」というおさえ。

 これらは、どれも重要な課題を含んでいるが、議論が拡散しないように、そして、“あそぴ”の精神を主体化するために、私達の文学史方法論である「現代史としての文学史」を確かなものにしたい。「“あそぴ”の系譜」から「『金塊和歌集』と太宰 治」への展開を中心にして、次回の例会を行うことが提案され、閉会した。




1989/11/25 414

11月第一例会(11/11) 報告 
M.M.

“あそぴ”の系譜――森鴎外から太宰治へ


 今回の司会は熊谷孝先生。パネラーはA.Y.さん、N.T.さん、S.T.さんの三人。会は〈A〉〜〈C〉の順に進行した。

 冒頭、熊谷先生から、次の二点が要請された。
1.文教研の共同研究の進め方は、旧制大学のゼミの方式と似ている。それまでに築き あげてきた論理を、新しい人に学びとってもらいながら、疑問や要求があれば、率直に出 してもらう。そして、その論理を逆もどりさせることなく、また“沈黙の時期”がなくてすむようにしながら、互いに遠慮会釈なくやり合いたい。とくに新しい人達は、五分と五分での自己を主張してほしい。

2.戸坂潤が『所謂批評の「科学性」についての考察』(1937年発表)に述べているように、批評の精神は、たとえ古代の作品であっても、これを現下の作品との連関を目標として省察するアクチュアリティーを重んずるところに特質がある。“現代史としての文学史”の概念は、ここから導かれた。この批評精神で井伏文学に立ち向っているS.T.さんの論文「井伏文学手帖と私」(131所収)を「銃後意識から不沈空母意識へ」とともに、今日のサブ・テキストとしてとりあげたい。

〈A〉 論点の提出
@出席者から
・ 解釈主義にとらわれている限り「感動もどき」であることをまぬがれない。“現代史と しての文学史”の視点の弱さを克服したい。
・ “あそび”の精神をアクチュアルに捉えることで、プシコ・イデオロギーにおいて主体化したい。
・ 自分がいま必要と している“あそぴ”の精神とは何なのか。“とらわれない”という事とつなげて考えていきたい。
・ 評論家と呼ばれる人々の鴎外論と文教研のそれとのちがいを実感している。文教研の視点に立った研究こそが、鴎外文学の科学的研究であることを明らかにする必要がある。
・ 岩上順一の歴史文学論は、かつて文教研に鴎外の歴史文学研究の切り口を与えた。鴎外文学がメンタリティーの文学であること(メンタリティー一般ではない)と“あそび”の精神とがつながるようにしたい。・ “あそぴ”の精神と解釈学批判の問題との関連をはっきりさせたい。
・ '80年代の今日の視点から逆照射するこ とによって、例えば『高瀬舟』の〈中流意識の幻想性〉がそこに描かれているということを再評価したい。近代古典を現代に生かすのは、文学数育研究として大事なこと。一方、一般の文学研究の状況――作者の創作意図に問題を解消するのが研究の主眼であるような――のどこに切り込み、どうやり合うのか。中流意識云々は、いったいどういう事を契機に、どういう視点がこちら側に出来てきたからなのか。
・ 鴎外の歴史小説がどうい う状況の中で生まれてきたのか、今、なぜ鴎外文学なのか、という事がわかった。わかった自分とは、どういう自分なのかが問われなくてはならない。

 提出された論点をめぐって、熊谷先生から、つぎのような発言があった。
文学研究プロパーとは何か。“現代史としての文学史”という考え方について批判 (自己批判)を出してほしい。“現代史としての文学史”は、(文芸の)批評でなければならない。それは、批評性を欠いては成り立ちえない。古代の作品であっても、直接に現下の作品との関連を目標として省察するのが批評の役目である。――これが文教研のめざすもの。これに対して、古代 の作品を、単に古代の作品として省察するのが文献学者や古典学者である。――これが世間で文学研究プロパーとよばれているものではないのか。
 文学は(文学的)認識である。この点をはなれてプロパーも何もありはしない。我々は我々の、文芸とは、という認識、文学的イデオロギーをもつ。源氏物語の示す文学的イデオロギーとちがうのは当然で、どの視点で切るかが問題であろう。現代人でありながら、現代を本当には捉ええていない自分を見据えながら、源氏物語を、金槐集を考察していく。 この姿勢が、唯一の文学研究プロパーの姿勢ではないか。文教研のやっている事は学問の本流ではない、という意識がどこかにありはしないか。

Aパネラーから
S.T.
 柱としては、鴎外が大逆事件とのかかわりの中で、そこからどう脱却するかを問題にして、“あそぴ”の精神を提示したこと。文学研究プロパーの、その「主流」は近代主義的視点からの研究である。鴎外論の基本は、戸坂理論から研究を出発させ、展開している熊谷先生から提起されているのではないか。
N.T. 作品を内側から探るとは何か、その本質は。“あそぴ”の系譜を考える時、どういう作家がそこに連なるのか。文学教育意識に立つ文学研究こそ、戸坂潤のいうアクチュアルな文学研究になるのではないか。
A.Y. 岩上順一の歴史文学論の問題整理の視点と現文教研の視点のちがい。“あそぴ”の精神と喜劇精神とのつながり。

(次号につづく)


1989/11/25 415 

11月第一例会(11/11) 報告 M.M.


“あそぴ”の系譜――森鴎外から太宰治へ そのA

〈B〉 パネラーによる論点の具体的提示
S.T. 新聞のアンケート調査によると、中流意識をもつ人の数が、依然として高い数字をしめす。戦争は、その仕掛け人だけがするのではない。それを支えているのが中流意識幻想なのだ。そのメンタリティーの問題がとりあげられぬ限り、倦怠の状況は変わらない。それをアクチュアルに問題にしていくためには、プシコ・イデオロギーの角度からのアプローチの仕方が最大の課題になる。鴎外は、人間の内側から虚構することで〈人間として面白みのある人間〉を発見した。そういうところに虚構概念が生きている。戸坂理論をアクチュアルに受けつぐためにも、アマチュアリズムの支えが要る。また“あそび”の精神もそれとのからみで考えていかないと、ただの余裕、アソビに堕してしまうであろう。

N.T.
 作品の内側から読むとは、作品の文体刺激に対して読者がどう反応するかという、その全人的反応のこと。「阿部茶事談」を読むことによって、『阿部一族』の文体刺激が変わるとしたら、その資料踏査は鑑賞体験の変革に意味をもつ。読者が自分のメンタリティーを問題にしている時に、鴎外の歴史小説がメンタリティーの文学として映ってくる。安保世代がそうであるように、今日的課題を探る事で苦悩し、倦怠を感じるからこそ、鴎外の“あそび”に眼がゆくのであろう。
 “あそび”の系譜を考える時、鴎外と太宰が太い線で結ばれているのがわかる。そこに井伏は入るが、芥川は入らないように思う。教養的中流下層階級者の視点に立つ文学者のすべてが入るわけではない。

A.Y. 岩上の歴史文学論から多くのことを学んだ。が、彼は作中人物の行為をイデオロギーの視角から裁断しているのであって、性格・心情の内面から追求してはいない。鴎外文学を楽しんで読み、作品の内側から自分に必要な文学としておさえてはいない。世の鴎外研究者は、自分の研究主体ぬきで、傍観者的に作品を論断している。
 『太宰治』の喜劇精神に関する指摘をふまえて捉え直していくとき、実朝を描くなかで、太宰が鴎外に学んだことの意味が、“現代史としての文学史”の視点に立つことではっきり見えてきた。この本の構成自体に『右大臣実朝』という作品を解明する、その焦点が明確に示されている。

〈C〉 全体討論での発言から
・ ジャーナリズムの中の鴎外論は、鴎外を体制側のイデオローグとして位置づけることに躍起になっている。その事で研究者としての独自性を出そうとしているものがほとんど。虚構の眼で真実を追究するものが文学であるという点を欠落させている。歴史小説という限定においてであるが、鴎外文学を奪還していかねばならない。
・ 喜劇精神は芥川文学の真骨頂。『大導寺信輔の半生』は、表現のトータリティーにおいて、喜劇精神が読者に迫る作品になっている。また、彼の文芸評論等にその裏づけを見ることができる。芥川には、“あそび”という、いい意味での余裕をもって、問題に立ち向かう姿勢はなかったといえるのではないか。
・ その意味で、喜劇精神がすべて“あそび”の精神から導かれるとは限らない。
・ 喜劇精神、“あそび”の精神を部分主義で、あるいは要素論で捉えるのではなく、トータリティーにおいてつかむことが大事。
・ 『実朝』を描くにあたって太宰が取材した「吾妻鏡」の、実朝のあたりには、書き手の歴然たる“あそび”の精神が感じられる。太宰は、その“あそび”の精神に共感し、その〈史実の記録〉を現代に発展的に生かした新しい「翻訳者」といえる。
・ 〈我宿ノマセノハタテニ……〉〈春雨ニウチソボチツツ……〉の歌は、二十代の時点ではなく、三十代、「金槐集」の中から実朝の表情を探っていった時の実朝再発見の中で見出され、位置づけられた歌ではないか。「金槐集」が、散文文学として『実朝』に移調される際の典型例をそこに見る。あの二首がひかれている部分は、実朝自身、倦怠の思いにくずおれそうな緊張した局面を迎えている場面である。そこに位置づけられることで、実朝の、そして創造主体である太宰の“あそび”の精神が生きているのを感じる。「金槐集」と“あそび”の精神との関係がうかがわれる。
・ 作品『実朝』の虚構の中に、太宰の愛読した「金槐集」の歌は姿を見せていない。マチ針はおさえの役をし、あとは抜きとられるもの。「金槐集」の指摘現実が散文文学の現実の中にトータリティーにおいて、移調、再生産されているのがわかる。

 全体討論の際に熊谷先生を初め、パネラーの方々の発言を、一部列挙させて頂くに止まってしまった。倦怠の極致ともいえる状況の中で、ある明るさを放つ二人の文学者の精神の内奥を窺い得た今回の例会であった。




1989/12/09 416

11月第二例会(11/25) 報告 
Y.A.

戸坂潤「所謂批評の『科学性』についての考察(1932)を読み合う 〔第1回〕-その1

 〈文教研理論の形成過程をさぐる〉というとき、熊谷先生と戸坂潤との出会いは決定的である。今回は、その戸坂論文の中でも、文教研の文芸認識論(――とりわけ読みの理論)に大きな示唆を与えた、「所謂批評の『科学性』についての考察」を取りあげ、その検討を通じて、熊谷理論を逆照射し、主体化しようというのである。初めに熊谷先生から問題提起があり、それを承けて、N.T.さん、K.T.さんが報告。司会はA.Y.さんである。

@ 〈「所謂批評の『科学性』についての考察」の冒頭〉
――単に文芸批評だけではない。総ての評論風の批評は直接感受した印象の追跡を建前とする。ただその印象が芸術的な印象ではなくて、理論的印象や科学的印象である時、普通これを印象と呼ばないまでで、この場合、印象の持っている印象らしい特色には別に変りがない。印象はそれを感受する人間の感覚的性能如何によって大変違って来る。印象とは刺激に対する人格的反作用のことであろうが、そうした特色には、科学的労作を批評する場合にも極めて大きな役割を演じている。(中略)印象はその人の眼の高さのバロメーターである。この印象の追跡が一般に批評だ。

A 〈熊谷先生の問題提起〉
(1) 戸坂先生との出会い
 私が法大の学部を卒業し院へ進む1935年ごろ、戸坂先生は「自由主義教授」として真っ先に教壇を逐われ、私は親しく教えを乞う機会を失ったが、先生の文筆活動 はますます旺んで、私は熱心に先生の著作を読んでいった。二年後の1937(昭和12) 年、この論文が発表された。「批評は印象の追跡である」――これこそ、我が文教研が、解釈学に対決して掲げた、読みの理論の出発点である。

(2)  しかし、いま読み返してみて、現在の文教研理論との間に、かなりのズレを感じる。そこには、戸坂理論に追いつき、追い越していった、私たちの学問継承のあり方がある。                  

(3)  私たちは戸坂先生以後を生き、その後の学問的成果を組み入れることができた。とりわけ大きな意義をもつのが、パヴロフの第二信号系理論(最初の邦訳刊行は1955年)である。これは、大脳生理学と心理学の両面から実証的に、「弁証法的反映論」が唯一の確かな認識論であることを、根拠づけたのである。(「文体づくりの国語数育」p.87〜102,p.324,p.326参照のこと)

(4)  このバヴロフの理論は伝え理論に組み込まれて、文教研の文芸認識論は大きく前進する。私たちの理論をふりかえってみて、いくつかのポイントを上げておこう。
 イ.信号の信号、すなわち二重の媒体による事物(=世界)の反映。
 ロ.「私」の構造――「私の中の私たち」「私たちの中の私」というあり方。 「私」はいつも変化していく。「私たち」を反映して「私」がある。
 ハ.さらに、その「反映」とは、いわゆる鏡の「反映」というのではなく、「相互主観性による反映」と考えるよりない。すなわち、フッサールの「相互主観性」(相互主観的な関係において、私たちという複数の人間が相互に反映している)という概念が、ここで活かされる。――戸坂先生は、『現象学』のフッサールを否定する立場から、この「相互主観性」の概念も“intersubjective”な低次のものとして否定している。しかし、根本的には、主観と客観のとらえ方の違い、が私たちとの間にある。文教研は、主観による認識ということを基底におく。問題にすべきはその“主観のあり方”である。

(5) その他、現在の文教研理論から見ると疑問の点が出てくる。
 イ.戸坂先生も「芸術は認識だ」と仰言るが、どういう性質の認識であるかが明らかにされていない。このままでは、どこかで、「科学的認識の方が優位」ということになりかねない。そこにはどうしても、フレキシブルな動的なものとしての、〈日常性〉を基底とする、概念的認識(科学性)形象的認識(芸術性)との、例の逆三角形の構造(『芸術の論理』p.88)の把握が必要なのだ。
 ロ.印象の追跡において「抽象力の働き」が「普遍的必然性をもたらし得る」という言表があるが、その場合の「普遍」の概念内包はどのようなものだったろうか。やはり、〈一般〉(ジェネラリティー)との対比において〈普遍〉(ユニヴァーサリティー)がとらえられなければならないのだろう。

(bS17につづく)


1989/12/09 417

11月第二例会(11/25) 報告 
Y.A.

戸坂潤「所謂批評の『科学性』についての考察(1932)を読み合う 〔第1回〕-その2

 ハ.散文と韻文とを区別し、散文は批評(クリティシズム)の対象になるが、詩は批評精神からほど遠い、といったことが述べられているが、例えば、藤村の 「荒鷲の歌」は批評抜きには成り立たないだろう。  ――という具合に、今の自分にひっかかる問題点を指摘することによって、深めていってもらいたい。

B 〈N.T.・K.T.報告を受けての討論〉から
(1) 文教研理論の出発点としての戸坂論文
・ 「印象とは刺激に対する人格的反作用のことである」という見事な把握。
・ 「批評とは何か」を、「印象」ということから始めるすばらしさ。そしてその印象の「追跡」が批評。

(2) フッサーリレの受容について
・ フッサールの受容の当時のあり方は?
・ もてはやされていた。いわゆる「印象批評」も、ピンからキリまで、雑多であった。それへの批判は、戸坂に当然ある。(熊谷)

(3) 印象の成立における〈教養〉の役割について述べられているが、それは、どこ かで「私の中の私たち」につながってくるものを持っている。しかし、〈準体験〉 概念はそこにはない。

(4) 「フレムトなるもの」をめぐって
・ 訳語をしっかり。fremd(独)=外来的な・自分が持っていなかった、という意。(熊谷)
・ 「主観的印象同士をどんなに印象という媒質自身の中でつき合わせても出て出て来ないものが、この主体的な印象と非主体的な抽象との二つのフレムトなるものを関連づけるという労作から、初めて出て来る。」という箇所がどうしてもはっきりしない。「非主体的な抽象」というのはあり得ないし、もしあるとすれば、それは役に立たぬものではないか?(熊谷)
・ 「すでに印象にとけ込んでしまっている教養」と、「まだ印象の肉となっていない過程的な教養」という分け方を戸坂氏はしているが、なにか二元的な感じがするが。
・ いや、そんなことはないのではないか。「フレムトなるもの――之は印象を変革し進歩させ成長させるものとなり得る。」この指摘は、その通りではないか。初め外なるものとしてあったものが次第に内化していく、過程的動的なものとしてよくとらえられている。

(5) 主観と客観、そして相互主観性について
・戸坂氏が「インターサブジェクティヴな(相互主観的な)客観性」と、「それ以上の客観性」(世界的実証)というように、客観にランクづけをしているのは、問題ではないか。客観のランクづけと、客観的な把握への過程ということとは違うように思う。
・ 大事な指摘だと思う。注をつけておこう。 objective(客観的)とは、実は object をしっかりつかんでいるかどうかという主観の問題だ。 subject なしに object は出てこない。さらに言えば、単なる「私」という subject が、どうとらえるかを言っても、まだ十分ではない。そこで〈相互主観性〉という概念が必要になってくる。相互に反映し合う複数の主観、それは、ある場合は世代の問題、ある場合は階級の問題として対象化されてくる。なのに、わが戸坂先生は、〈相互主観性〉の否定から、問題を始められる。戸坂先生は、第二信号系理論をくぐれない歴史的集件の下にあった。私たちには第二信号系理論をくぐれたという幸せがある。その条件を生かして、理論や概念をとらえ直し、さらに有効な概念として組み込んでいくことが、理論の継承ということであろう。フッサールをも組み込んで、文教研の芸術認識論は大きく発展している。(熊谷)
・ 自分に現在の文教研のテーゼをはっきりさせることで、この論文の意義がいよいよはっきりつかめますね。次回は、論文の後半に目を移しながら、検討を続 けましょう。



1989/12/26 418

12月第一例会(12/9) 報告 
H.M.

戸坂潤「所謂批評の『科学性』についての考察(1932)を読み合う 〔第2回〕-その1

〈1〉K.T.報告の要点
@ 論文の後半は、科学的批評とは何かを中心に論じている。まず、「批評が科学的であることの、最も手近かな特色jとして、「組織的体系的」であることを挙げている。そして、批評家が持っている「システム」は「不動な屋台骨」などではない、と言う。ここで 「システム」が動的なものであるということを教えられた。また、批評家自身が自己の「システム」に自覚的でなければその批評は科学的とは言えない、という指摘も納得できる。

A 「批評は読者代表が一般読者へ、作品を紹介し見方を先導すること」だという、批評の「啓蒙教育的な用途」に関する叙述には“媒介の論理”があり、私たちの考える文学教育につながるものを感じる。

B 「批評の対象はいつも現下の事物を以て正規とする」という「アクチュアリティーの精神」は〈現代史としての文学史〉という文教研の考えと同質のものではないか。

C 「批評の目的は、文芸的認識の反省を与えることにある」という指摘は重要だ。文芸も「一つの認識」であり、文芸学は認識論を想定して出発しなくてはならない、という指摘には大いに学ぶべきだ。だが、文学における認識がどういう種類の認識であるか、この論文では明らかでない。そのため、科学一般として話題にするにとどまり、“文学の科学”という発想が見られない(やむを得ないが)。

D この論文では、結局、主観を否定してしまっている。個人的・主観的なものは不十分なものとして否定されている。「印象の追跡」という言葉に託された概念も、私たちのそれとは異なっている。「私の中の私たち」という捉え方をしていないためだろうか。

〈2〉 質疑・討論の中から
・ (報告Aについて)批評は「読書術を教える」ものだという考えは、媒介の論理とは発想が違うのではないか。
・ 確かに、媒介の論理とイコールではない。そこに見られる教育観や人間観は、私たちのそれと異なっている。しかし、批評を読みの変革と結びつけて考えているところは、私たちが受け継ぐぺきことではないか。

(次号に続く)


1989/12/26 419

12月第一例会 報告 つづき 
H.M.

戸坂潤「所謂批評の『科学性』についての考察(1932)を読み合う 〔第2回〕-その2


・ (報告Cについて)戸坂さんは、社会科学としての文芸学という考えに立っている。「文芸学」という言葉で“文学の科学”を考えている。ヤスパースや和辻などが存在論で芸術を考えていた(『文体づくりの国語教育』p.162以下、など参照)のに対し、戸坂さんは存在論哲学を否定し、認識論を前提とした文芸学を提起しているのだ。
(報告Dについて)戸坂さんが主体を大事にしている点は私たちと似ている。しかし、最後には主観を否定してしまっているところが問題だ。科学一般に行って、文学がどこかへ行ってしまっている。(熊谷)

・ 前回確認したように、戸坂さんは相互主観性を否定しており、〈私〉を〈私の中の私たち〉と捉えないため、認識論(反映論)を想定するとは言っても、科学的真理をいかにとり入れるかということになってしまうのだ。

・ 文芸は「実在の認識」(「存在の認識」ではなく)だと、神経を使った言い方をしている。それには賛成だが、説明としては不十分だ。社会科学はどういう主観(主体)によって捉えられるのかについてもあいまいだ。私たちは〈私の中の私たち〉〈私たちの中の私〉ということを徹底させるために、相互主観性という概念を大切にしたい。私たちはこれを井伏文学に取り組む中で手にしたが、戸坂さんの場合、それは主題になっていない。(熊谷)

・ 戸坂さんのリアリズムは固定的だ。そこにはフォアビルト〈典型〉という考えはないし、“くみかえ”という考えもない。熊谷理論は戸坂理論をさらに発展させている(『文体づくりの国語教育』p.57参照)。

・ 媒介者としての文学教師の役割と、戸坂さんの言う「教師」との違いを感じる。

・ 戸坂さんは、批評は読書術を教える文芸の一ジャンルだと言う。批評が科学でなくて文学だという意見には賛成だが、批評という文学の定義としてこれでいいのか。文学だと言うなら、言葉の芸ということにもっと目を向けるぺきだ。岸田国士や木下順二が、ドラマ(戯曲)は身ぶり手ぶりが中心ではない、言葉を大事にすべきだ、と言ったが、文学の本質もまた言葉の芸という点にある。「読書 を教える」という言い方では、批評という文学の説明にはならないだろう(その点、小林秀雄の批評は、たとえその思想が気に入らなくても、また、論理的ではなくても、言葉を大事にしていると言える)。(熊谷)

・ 「印象の追跡が批評だ」 という冒頭の言葉は、鑑賞の変革を促すものとして印象の追跡を考えて言ったものだろう。それと、「教え得る」「学び得る」ということが批評の特徴だという説明はつながらないし、納得できない。

・ 「読者代表が一般読者へ、作品を媒介し見方を先導する」のが批評だという戸坂さんの考えは、本来の読者をくぐって媒介する、という私たちの考えとは異なる。戸坂さんの言う「世界観」とか「方法」とかいうのも、ヘタをすると“読み方教育”につながりかねない弱点を含んでいる。

・ 戸坂さんは「反省」する主体・主観を問題にしない。その硬直した部分が、本間・甘粕といったお弟子さんによって拡大された。熊谷先生が戸坂理論のすぐれた面を発展させているのと対照的だ。

・ 「科学的批評にも色々の種類と段階とが出て来る」と、戸坂さんは段階論をとっている。そこでは「側面領域」という押さえが弱く、バラバラだ。(〈文学の科学〉は〈文芸認識論〉〈文学史=現代史としての文学史〉〈文学教育研究〉の三つの「側面領域」から成る。――熊谷テーゼ) アクチュアリティーの指摘はすばらしいが、ここからだけでは〈現代史としての文学史〉という考えは出て来ないのではないか。

〈3〉 達成点と課題
  「認識論の大切さがわかった」(D.H.)という発言が参加者の気持ちを代表したような例会だった。この戸坂論文は、文学を存在論(形而上学!)に戻そうとする風潮の中で、 「認識論の弱さに警鐘を鳴らした論文」(熊谷)として重要な意義を持つものである、ということが確認された。と同時に、その不十分さ――それが客観主義へとつながっていった内在的本質――も明らかになったように思う。そういう意味で、「批判的に読むとはどういうことかがはっきりした会」(S.T.)でもあった。
 冬合宿では、『文体づくりの国語教育』を集団で読み合う。その中で、この論文の意義 もいっそう明らかになるにちがいない。



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