むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1987                *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1987/1/24 336

1月第一例会報告 Y.H.
 1月第一例会は、冬合宿最終パートの「国語教育の視点から学力とは何かを考える」課題を引き続き取り上げ、検討した。
 正月をはさんで、これについて、私は、すっかり焦点ボケしていたが、Y.A.さんの“前回のまとめ”で、ようやくピントが合いはじめた。簡潔でありながら、あの冬合宿でのダイナミックな討論内容が、よみがえるまとめであったからである。
 このまとめを聞く中で、特に思い出されたのは、「美しい日本語を守り、育てる意識が、日本の母国語教師自身に、どれだけ自覚されているだろうか。また、高次で自由な対話を、民族の中に可能にする、そういう普遍を求め、豊かな発想を培う言語教育の必要が、どれだけ私たち国語教師に自覚されているだろうか。国語の学力を培うことを可能にするのは、その自覚とつながってしかありえないと思うのだが……」という厳しい反語をはらんだ問いかけ──具体的な事例を閲しての、その問いかけであった。
 今回の例会は、その問いかけに対して、ぐいぐいと問題の所在をさぐっていったという印象の強く残った例会であった。以下、当日のまとめ、私の関心にそったまとめである。

日本語と、そのことばの文化を豊かにしてきた文学者の系譜──その文学史をもたぬ教師に、国語の学力は培えない。
 変化する言葉に、多くの人々が流されている現状を、言語学者でさえもが、安易に容認しているのが近ごろの風潮である。
 そこには、ことばは変わるという前提を押さえながらも、美しい日本語は、あくまでも守るのだ、という姿勢が少しもないのだ。
 いわば、ロシア人にとっての「プーシキンのロシア語」といわれるものが、またはドイツ人にとっての「ゲーテのドイツ語」といわれるものが、日本人の意識の中には、残念ながら確立されていないのである。
 “あるべきことば”としての守るべき美しい日本語への関心を、民族の中に培うことが、言語学者や母国語教師の本来の仕事であるはずだ。それが見えていない のでは話にならない。
 それどころか、変わることは新しいこと、新しいことはよいことだという発想に立って、日本語の破壊としかいいようのない“変化”に加担していく状況では、まったく国語の学力など培えない、というほかないだろう。──熊谷先生、I.M.さんなど多くの人の発言があった。

 ここで実(み)になるはなしをひとつ。
 熊谷先生が、親友の乾孝さんから見せてもらった手紙のこと。暗い谷間の時代である。
 ドイツ人の友人から、乾さんの父上のところへ届けられた一通の手紙に「我が国は、今、国語を失いつつある。ナチがゲーテのドイツ語をふみにじっているからだ。しかし私は、私たちの国語の回復する日に向けて努力している」というのがあったという。示唆に富む話だと思う。
 “あるべき国語”を失うことは、国を失うことであり、民族の魂を失うことになる、という認識がここにはある。ことばの変化を安直によろこぶ風潮がある今、民族的体験の共通信号の系としての日本語をこどもたちに育んでいく私たち母国語の教師に要求されているのは、こういう視点、こういう構えではないかと思った。

 それでは、日本の国語教師は、ゲーテのドイツ語、プーシキンのロシア語に相当する“あるべき国語”をどこに求めていくか。残念ながら「どこに」という以前に、そうした民族の誇りとし規範とする、共通のことばへの関心 が、まず一般には存在しない現状にあるのは、みてきた通りだ。しかし、「少なくとも、私たち文教研で学んできたナカマには、見えていいのではないか。異端の系譜に立つ文学者が、そこにあるからだ。」I.M.さんの指摘である。
 なるほどそうであった。芥川、井伏、太宰などの文学系譜は言語の系譜でもあったのだ。「文学の歴史は文体の歴史である」(熊谷孝『芸術の論理』p.172)というテーゼを思い浮かべていた。
 そうした展開を経て、この異端の系譜に立つ文学者の言語系譜こそ、わが現代日本語の母胎、“あるべき国語”なのだという確認が、この日の例会でなされたのである。大きな収穫であった。

 今、論証的に述べる暇がないので、少しばかり飛躍したいい方になるが、まさに、文学史をもたぬ国語教師に、いいかえれば言語の系譜をもたぬ国語教師に、国語のと学力は培えないと思ったことである。
 〈文学史を教師の手に〉という課題の意味するものの、その大きさが改めて実感された日であった。
(以下次号)


1987/2/14  337  

1月第一例会報告 つづき  Y.H.
第二信号系理論の媒介を欠いた国語教育では、新の国語学力は培えない。
 美しい日本語創造への努力、あるべき言語への関心、それは国語教師にとって不可欠の条件であった。それはしかし、その言語への関心のありように狂いがあっては、つまりその言語観に狂いがあっては、ことば本来の生産的・実践的機能を失わしめてしまう。
 そこで、私たちはこの日の例会で「第二信号系としての“ことば”を操作する」という視点を欠いた国語教育は、国語教育として成り立たないのだということをも、同時に確認していった。
 だいいち全教科が国語(日本語)で教育されている。生産的・実践的なことば操作を培う国語科の任務は重大だといわなければならない。
 絵画のような認識も、“ことば”体験(第二信号系)に媒介されているという条件反射の常識を思うとき、ことば自体で思索する国語教育において、言語の機能を深く理解すること(第二信号系の理論を媒介すること)なしには、豊かなことば操作、実践的なことば操作は培えないだろう、ということであった。

※条件反射の常識として、いわゆる「ことば」体験(第二信号系)に媒介されない感性的な認識はありえない。(熊谷孝『芸術とことば』p.171)
 ところで、「“ことば”体験に媒介されない感性的認識はありえない」という点につながる問題として、熊谷先生は、’86年11月2日付「朝日新聞」(日曜版)掲載の〈世界名画の旅〉の一文を紹介された。
晩年のシャガールと親交を結んだ、レネマンというフランスに住むユダヤ人のジャーナリストの下にのこされた、シャガールの手紙は、みな“イディッシュ”と呼ばれるブテビスク(シャガールの故郷)特有の言葉で書かれていた。
という。このレネマン氏は、
「シャガールの絵では、人が宙を飛んだり、体が逆さまになったり、顔が緑色になったりしていますね。イディッシュにも同じ言い方があるのです」という証言をしたのである。「例えば人が家を訪ねることを“家を飛び越えて”という。深く感動したことを“私の体が逆さまになった”。長い祈りのあとの状態を“あの人は緑と黄色になった”と表現する」云々。
 新聞の見出しには〈言葉のイメージが絵に結実〉とあったが、たしかに、“ことば”体験に媒介された表現認識だといえると思った。勿論、絵画は絵画固有の言語(伝えの媒体)によってしかつかめない。──つまり「ことば」(概念)には翻訳できない固有の対象領域だということは、前提にした上での、先生の紹介である。
 おかげで、先生の紹介とこの記事を通して、普段はかくれてみえない絵画と“ことば”(第二信号系)の関係の秘密の一端を、私たちは見ることができたのである。「“ことば”体験に媒介されない感性的認識はありえない」ということの秘密をみせてもらったのである。
 シャガールは大好きな画家の一人であっただけに、ことにおもしろく聞いた。


1987/2/14 338

1月第二例会報告(H.M.)から
 討論は主として『コシャマイン記』を対象に展開した。課題は二つ。〈その1〉『コシャマイン記』の“素朴さ”とはいかなる性質のものか。〈その2〉『コシャマイン記』の叙事詩的文体(その文章の魅力)の文学史的必然をどうとらえるか。

 〈その1〉について
 ★今日(1/24)の『朝日新聞』の「声」欄のトップに、ある大学教師の文章が載っていた(『民衆を忘れた経済学の貧困』/楠井敏朗──記録者注)。彼はそこで、経済学はアダム・スミス以来、民衆の利益と幸せを根柢においてきたのに、現在の経済学はもっぱら独占の利害のためにあると批判している。今、民衆も政治家も階級論を忘れてしまっている。「民衆」とか「民主主義」とかいう言葉はあるが、階級論が抜けてしまっている。こういう現在の問題とつながるものとして、『コシャマイン記』の“素朴さ”はあるのではないか。民族イコール大和民族ということになってしまっていた時期に、階級論的に問題を素朴につかみ直している。しかも、文学的イデオロギーにおいて。(熊谷)

〈その2〉について
 ★すぐれた文体的発想だからこそ読者に訴えてくるのだが、『コシャマイン記』の叙事詩的文体(その文章表現)は、三重吉『千鳥』、写生文、鴎外『寒山拾得』、龍之介『雛』などの系列に位置づくのかどうか、検討する必要があるのではないか。『でオロギー的にではなく、その文体が──。(熊谷)
 ★ヨーロッパ文学の逐語訳のような意識的な翻訳調になっている点が、言語論・文学論的におもしろい。アイヌの言葉を日本語に翻訳しているという調子、それでユーカラの世界に読者を引きずり込んでいく表現効果を上げている。わざと漢語を使ったりして、日本語になりきっていないという印象を与えながら、それでいて日本語としてのリアリティーを読者に感じさせる。これはインテリ向きの文章表現であり、蘆花『灰燼』の会話のくだけた調子などとは異質のものだが、インテリ言葉としての限界だということになるのか。これをこえた新しい文体はまだないのではないか。


1987/2/28 339

1月第二例会報告 つづき(H.M.)から
 こうして、『コシャマイン記』が教養的中流下層階級者の視点に立つ文学の系譜につながるものであることが確認された。『自画像』に選ばれている作品がすべて教養的中流下層階級者の視点に立っているというのではない。また、鶴田知也の作品すべてがそうだというのでもない。だが『コシャマイン記』は──『コシャマイン記』の鶴田は──明らかにその視点に立っている。そして、この作品は、“井伏1929”から『多甚古村』に到る道程に位置づくすぐれた作品であることが確認されたわけである。
 どころで、こうした検討の中で、熊谷先生から重要な指摘を受けた。それは、私たちの中に“物差し”で測りうると思われる作品──イデオロギーで説明しやすい作品──を選んでいる面があるのではないか、という指摘である。感動とは物差しで測ることのできないものだろう。イデオロギー主義にとらわれないで、文体それ自体で評価できるような作品、物差しで測りえないような文学性・芸術性のある作品を検討してみたらどうか、という提案でもあった。そういう角度から見たら、『寒山拾得』はどうなるか。『コシャマイン記』はどう評価されるか。これは今後の課題となるだろう。が、今はとりあえず、印象に残った発言を摘記しておきたい。

 ★言葉の芸として楽しめない限り、文学を読んだということにならない。文体それ自体のおもしろさを実感できない限り、母国語文化創造の基盤もつくれない。「ことば自体で思索する」(木下順二)という指摘を想起する必要がある。『コシャマイン記』についても、翻訳調とおさえるだけではダメだろう。(I.M.)
 ★『自画像』で太宰治『道化の華』について語る時、熊谷先生は「作者は……」というような箇所を意識的に省いて、再構成して紹介しておられる。文学作品を自分の支えにして生きてこられたということが、世間一般の羅列の文学史と『自画像』との決定的な違いをもたらしている。(T.M.)
 ★“物差し”で測れないような、文体の美しさがわかるところまで子供たちを育てること、(そういう“国語の学力”をつけること)を私たちは目指さなければならない。『道化の華』のよさもイデオロギッシュな裁断では味わえない。物差しで測れないところをどう語るか、その具体的な形が『自画像』には示されている。(S.T.)


1987/3/14 340

2月第一例会報告(『自画像』「戦後へ」) つづき
(M.T.)から
『野火』(大岡昇平)をめぐって

 休憩後、『野火』の“私”が殺人者となった“偶然”を否定的にとらえてはいなかったか、と話題提供者に対してN.T.さんから質問が出された。“偶然”と“必然”とのかかわりについて、熊谷先生から次のような指摘があった。
 「個」とはつねに「偶然」である。個を核(ケルン)として、読者にとっての必然(普遍)につながる。個々の偶然は、つねに必然にかかわるもので、文学とは文学的現実を描くもの、偶然(虚構)を描くものだ。個々の偶然と文学的必然性が、うんと話題にならない文学論はおかしくはないか。
 大岡氏は「通念とは逆に、批評家になりそこなって作家になった男」で、悪しき日本文壇の泥水をかぶっていない。馴れ親しんできた日本語にあきたらないものを感じてきた大岡氏。フランス文学を翻訳しながら読んでいた大岡氏の、翻訳調の新しい文体の創造への模索がある。『野火』は自称「批評家になりそこなって作家になった男」の虚構によるすぐれた批評の世界(『自画像』p.246)であり、『野火』こそが戦後文学の出発点であることが確認された。

『真空地帯』(野間宏)
 これに比べると『真空地帯』は「作者がほとんどまったく曽田の眼を通してしかもの をみていないこと……外部からの刺激に対する媒体として曽田が位置づけられているのではなくて、媒体はむしろ野間自身であって、作者のアンテナに感じたものを曽田がただスポークスマンとして発表する、という格好になっている」(『自画像p.249)「その点、非インテリ庶民出身の兵士、染に焦点を合わせて演出することで曽田という知識人をつき放してつかむことに成功している、山本薩夫監督の映画作品『真空地帯』の現実把握、人間把握がみごとだった」(『自画像』)という指摘に改めて学びたいと思う。


1987/4/11 342

3月例会(3/14)報告(M.M.)から
 最初の〈十分コーナー〉では、井伏作品の朗読を聞かせてもらった。最近発売されたカセット・テープによるものである。『屋根の上のサワン』末尾の部分を俳優による朗読で、次いで『厄除け詩集』から三編の詩を作者(井伏)自身の読みで聞いた。作者の息づかいがそのままの、リズム感あふれる読み、またそのあいだにはさまる井伏氏独特のつぶやきに、思わず笑いがもれた。特にコメントは添えられなかったが、作品の“文体”を媒介する読みとはどういうものか、考えさせられた。その際K.M.さんからNHKテレビ(NCナイン?)に井伏氏が出演し、そこで、『山椒魚』の改変について「末尾を削ったのは失敗だった。……後に続くものが書きかえてほしい、……ぼくはもう体力的に書き直しは無理だ……」と語っておられた由。こういう井伏氏の気持を代弁するような、かつての例会の席上で熊谷先生のお話が思い出された。作者自身によって、文教研の主張が裏づけられたことに、あらためて驚きと喜びを感じる。

 前回の総括はM.K.さんが行なった。〈十分コーナー〉での熊谷先生、Y.A.さんの共通一次をめぐる話題についてM.K.さんは、共通一次のおよぼす害悪は、中・高に限らず小学校の問題でもあることを指摘した。言葉で思索する訓練ができていないし、やらされてもいない。子供達の心の荒みは文学教育でしかとりもどせない。真の国語教育をどうしていくか、文教研でなかればできない取りくみを、という私たちの緊急の課題を全国集会へ向けて再確認するように話された。

 全国集会については、まず初めにN.T.さんから説明があった。(計画案のプリントのコメント参照)
 〈統一テーマについて〉“言文一致再説”とあるが、“言文一致”を過去の問題としてとり上げるのではない。母国語と母国語文化を新人類に任せてはおけないという発想から、今日の問題として考え合おうというのである。私達の“文体づくり”の国語教育をどういう系譜につながり、どのような“文体づくり”として行なっていくのか、その問題を言文一致の視点から考えてほしいのである。
 〈統一テーマ〉についておおよそ次のような意見がかわされた。
 (熊谷先生から)──言文一致は、日本語の中で、すでに実現されているだろうか。否であり、現在はそれへのプロセスである。その言文一致への道を進めるどころか、邪魔するものが、文学者群を含めて、居る。それを排除して、本当の日本語をつくろう、美しい言葉操作の仕方をはぐくもうというロマンティシズムが私達にはある。リアリストなるがゆえに。
 “母国語”をつくる、とは、“言文一致”をつくりだすことである。“リアリズム志向のロマンティシズム”を言語の面にウェイトをかけて言えば、それは“言文一致”ということになる。今年はそれを深めることが課題である。タイトルの中の「現代日本語の創造を導いた人びと」の中に私達も入るのである。
(中略)

 プログラムの〈各パート〉について。[その要点列挙の中から]
 ★『炭鉱地帯病院』・『コシャマイン記』・『野火』は、作者が、身をけずる思いをしながら、新しい文体の創造を実現した作品として、とり上げられている。翻訳調の問題を考えていく。
 ★『右大臣実朝』は“よみ”を意識しないと作品の発想をとりちがえてしまう作品。今年は、この作品によって“よみ”の問題を考える。その“よみ”について、熊谷先生から、次のようなご指摘があった。
 ──それは、きれいに読む、上手に、ドラマティックに、その人物らしくよむ、というのではない。文体をとらえ朗読として生かしていく、ということにも留まらない。虚構のないものは文学ではなく、綴り方である。文学と称されていても、虚構性の稀薄なものは、また文学とはいえない。虚構性を朗読を通して生かす、ということが、どう読むかの課題である。


1987/4/11 343、344

春合宿メモ  I.M.
 話題になったことを、以下、箇条書き風にメモしてみることにする。

『寒山拾得』・『寒山拾得縁起』をめぐって
 ○ 熊谷孝氏がこの作品を素材として作成された入試問題(問題の設定の仕方)は、私達のの読みの構えを明確に方向づけてくれるものだった。そこでは、a 「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ。」(『──縁起』)という部分について、その言葉に託された鴎外の人間観が問われていた。また、b 『徒然草』の「八つになりし年……」と『──縁起』の父親の、子供に対する両者の姿勢の違いが問われていた。それは同時にそこにあらわれた子供像の違いを問う問題でもあった。

 ○ a について。
 ・人間は「文殊」である可能性をもつこと。世俗的な権威主義やレッテル主義におかされて精神の自由を失っているかぎり、この作品の作中人物達が寒山や拾得を単なる変人としてしか考えなかったように、そのような人間の可能性・可変性をけっして発見できないこと。「腹の底から籠みあげて来るような笑声を出し」て逃げだす二人の姿の描写をとおして、そうした囚われた精神のあり方が徹底的に批判されていること。
 ・言い換えれば、「人間みな同じものではない」という人間観がここにはっきり提示されていること。等々が明らかにされた。
 ・これはまた、芥川や太宰が鴎外から何をうけついだかを考えるうえでも重要な視点である。

 ○ b について。
 ・『──縁起』の子供はいわばジュニア鴎外とでもいうべき存在であること。この子供は未知を既知に変えたい全人的な要求から問を発しているのであって、質問のための質問をしているのではないこと。
 ・この子供はそういう意味で歴史小説の鴎外に発展する素地をもっているが、悪くすると史伝物の鴎外の考証主義にすべっていく可能性もあること。
 ・「実はパパアも文殊なのだが」という言葉は、そうした子供の可能性への期待をしめしている。その時点ではそのユーモアの意味を本当には理解できなくとも、あるおもしろさを感じそれをきっかけにして内なる対話をつづけていくであろう子供像がイメージできるし、またそれを期待している父親像がここにある。
 ・こういう父親と子供の対話を描くことをとおして、おとなの読者へむけての、自作案内とでもいうべき人間観が実はアピールされていること。
 ・それに対して、『徒然草』の子供(兼好自身、過去の自己とともに現在の自己をそこで語っているわけだが)の質問の仕方は「論理的」であるが、その論理は機械的だし質問のための質問という傾向がある。また父親も、そういう子供のあり方を手放しで喜んでいる。
 ・こうした違いは兼好と鴎外の人間観──人間把握の発想の違いを反映しているのであって、近代人と中世人との違いなどには還元されない。

 これらの問題は、この作品の歴史小説としての特徴、その文体的特性・言文一致の表現の創造等々との関連でも論じられ次の点が明らかにされていった。

 ・『阿部一族』のような歴史小説のタイプを絶対化して、それ以外のものは本格的な歴史小説ではないとするのはおかしい。どういう角度から歴史的現実(現代をうつしだす鏡としての)を対象化するかで歴史小説のありかたも変わる。
 ・菩薩の化身として登場する拾得の、いわば伝説的世界を媒介にすることで、真当な単純化において人間とは何か、精神の自由とは何か等々がさぐられている。
 ・文体のありかたも当然そういう発想に照応するものになっている。そういう文体のリズムを無視して読んでいたのでは、イメージは喚起されない。
 ・一般化していえば、形象的思考は文体のリズムに対応する一定のテンポで作品の文章を読んでこそ、真当に進行する。
 ・そうでないと問題にする必要のないことをいちいちとりあげて解釈をはじめるということにもなる。また、鴎外が本来の読者との対話を組織していく場合、ごく自然にでてくるような話題──たとえば冒頭部分の「吉田東伍さんなぞは……」など──についても、歴史小説なのにこんなことに言及するのはおかしいなどと見当違いの非難をすることにもなる。
 ・また、『阿部一族』と『寒山拾得』の文体の違いは言文一致とは何かを考える意味でも重要だ。文が言を規定する(第一次的に)過程と言が文を規定する(第二次的に)過程──第一次性と第二次性をおさえた上で、両者の相互規定の関係をとらえること、そうした角度から文体の違いについても考えてみるべきではないか。
 ・『寒山拾得』も「あそびの精神」につらぬかれた本格的な歴史小説であることの確認。この確認はまた、芥川の歴史小説を評価していくための明確な視点を提供している。

『右大臣実朝』jをめぐって
 『寒山拾得』同様、熊谷氏作成の入試問題が読みの問題を考えるうえでの大きな示唆を私達に与えてくれた。『寒山拾得』の場合もそうだったのだが、熊谷氏はここでこの作品の文体的特性を読者が的確に把握できるように、原文を再構成して提示している。そこでは「この作品では、『私』という将軍家側近者の目をとおして、精神の自由を求めつつ逆境を生きる実朝の心象風景が探られる、という設定になっている。」という場面規定を前提に、ナレーターの言葉(地の文)・ナレーターの紹介する実朝の言葉・ナレーターの紹介する、平曲の部分(知盛・与一・義経)が再構成され提示されている。
 また、「『人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ』という言葉は、実朝自身のどういう思いを示しているか。また、この表現が、作品の読者の思いに迫るものがあるとすれば、どういう点だろう。」という設問が用意されることで、さらに「太平洋戦争下の、また戦後現在のこの作品の読者にとっても、やはり今日の社会状況や人間関係において見られるこの陰湿さを見つめさせられることで、作品の読みが深められていくのである。」という選択肢が用意されることで、場面規定の意味がよりいっそう明確になっていくのである。

 ・以上の点をふまえないでは、読みの問題(黙読にせよ音読にせよ)を考えることはできない。
 ・ナレーターが身分の高いある人に語っているのだという点をぬきにこの作品の各部分を読むことはできない。平曲が引用されているからといって、琵琶法師が語るような調子で朗読したらおしまいだろう。
 ・また、この作品の終章には『吾妻鏡』・『承久軍物語』・『増鏡』が再構成されたかたちで位置づけられているわけだが、語り手自身によってこの三書が位置づけられているのではないか。そのことをぬきにしてこの部分の文章を読むことは出来ない。
 ・各部分のトーンの違いと一貫するもの──それをとらえつつ読むということが必要だ。
 ・こういう点で木下順二のいわゆる群読という発想に学ぶ必要があるだろう。
 ・文学作品の読みは、その文体的特性に即したものであり、文学を文学たらしめているその虚構性をいかしたものでなくてはならない。
 ・こういう視点から、形象的思索を真当なかたちで実現させていくうえでの、音読(朗読)のもつ意味、音読(朗読)と黙読との相関関係、「ことば自体で思索する」ということの意味がとらえられなければならない。

漱石と鴎外をめぐって
 熊谷氏の『太宰治』(p.106〜108の注二の部分)を中心に、現代日本語の創造の問題との関連のなかで、漱石のはたした役割が論じられた。

 ・注二の部分では『芸術とことば』からの引用をとおして、自然主義系列の私小説ではなく鴎外や漱石のアマチュアリズムの作品こそが文学史に大きな足跡をのこしたこと、その必然性が論じられている。「新聞小説に文学をもたらしたものは漱石であった……これまで通俗小説の舞台でしかなかった新聞の小説欄の調子にある程度自分をマッチさせつつ、文学者としてのそういう大きな仕事を、みごとに彼はやってのけた」。
 ・自然主義の作家たちは主観的には誠実だったが、それは馬車馬主義(真心主義)にすぎず、アマチュアリズムの精神こそが、広い視野において現実の問題をさぐり文学者として目をむけるべき対象に目をむけることができた。(幸徳事件)
 ・『芸術とことば』のなかで漱石は、「天才とタレント」・「アルティザンとアーティスト」の問題との関連で言及されている。
 ・天才とは個性的なリズム感覚において新しい展望をつくりだす才能のことである。が、そういう新しさは、習熟による必要なくり返しというタレント性によってささえられている。
 ・天才はけっして完全人間ではないし、自分だけでその仕事を完成できない。見通しそのものをはっきりさせたり補足したりという仕事によってささえられる。そういう仕事を担当するのがいわゆる「タレント」だが、そこにつけ加えられる部分的な新しさは「タレント」内部の天才性によって実現される。「タレント」もまた、努力によって天才性をみにつけることができる。
 ・こうした天才概念は、「人間として面白味のある人間」という概念とつながりあうし、また文学系譜論の発想ともつながってくる。
 ・天才(性)とタレント(性)の問題は、また、「こんにちの作家は、一面、アルティザンであるほかありません。アルティザンとアーティストの、すぐれた意味における統一が、むしろ、そこに求められるのであります。」という問題ともつながる。
 ・「作りたいものを作りたいように作りたいように作る。」というアマチュアリズムの精神はけっして独善的なものではない。持続的・発展的な実践のためにこそ「幅のある態度」が要求される。漱石と鴎外・教養的中流下層階級者の文学の系譜・現代日本語の問題等々をとらえていく視点がそこにある。
 ・また、このことを追求することは同時に私達文学教師にとって、今日要求される真のアマチュアリズムとは何かを追求することでもある。


1987/4/25 345,346

4月第一例会(『増補版 太宰治』の検討)報告
 H.M.
 (前略)
 今回の検討のなかで指摘されたことは多岐にわたるが、私にとってそれは、文教研理論の再整理と深化を意味した。今ここにそれをまとめるのは、何よりも自分自身のためである。それで、発言者名は特に記さずに、箇条書き風にまとめてみることにする。

 1.「少数者への信頼と期待に支えられての作家の孤独な営み」が鴎外、芥川、井伏、太宰と続けられていく、という指摘(p.111)があるが、この点ての鴎外と太宰とのつながりが改めて認識される、そして、太宰文学の展開の中でその「本来の読者基盤」に拡がりが見られるという指摘(p.26以降)は「〈文壇的読者〉以外の知識人・読書人を広汎に小説の読者にくみ入れた」漱石の評価(p.107)と考え合わせると、大変興味深い。

 2.文壇文学と真の文学(異端の系譜)とを区別せよという指摘(p.105)から学ぶことが多い。そこに、アマチュアリズムの受け継ぎという問題がある。ところで、漱石文学はどう位置づくのか。中流下層階級者の視点に立つ文学系譜ということから言うと、漱石は“外祖”とは言えない。アマチュアリズムに徹した段階があるからといって、だから外祖だと言うわけにはいかない。芥川は漱石の弟子だったが、鴎外から芥川へという系譜をこそ私たちは重視する。“外祖”ということばは厳密に大事に使いたい。
 現代日本語の創造という点で漱石の果した役割は正当に評価すべきだし、教養的中流下層階級者の視点に立つ文学の発想と矛盾しない方向での模索がそこに見られるのも確かである。それでも、やはり、、“外祖”とは言えないだろう。

 3.鴎外が外祖だと言っても、その場合の鴎外とは、たとえば史伝物の鴎外を指すのではない。漱石についても、『明暗』や『門』ではなく、『三四郎』などの漱石を評価するのだ。鴎外とか漱石とかのレッテルで判断すべきではない。
 『寒山拾得』における人間の捉え方は、教養的中流下層階級者の視点に立つ文学における、それまであと一歩という感じだ。しかし、『渋江抽斎』にはアマチュアリズムは失われているのではないか。『寒山拾得』評価についても、通説とは異なる私たちならではのものを出したい。

 4.私たちは何を基準にして現代史としての文学史を構築するのか。この頃、H.R.ヤウス(『挑発としての文学史』1976年)や、W.イーザー(『行為としての読書』1982年)などが読者論の立場に立つものとして注目されたりしているが、熊谷先生はそれより10年以上も前から『芸術とことば』などでダイナミックな読者論を展開しておられた。しかし一般の研究者や評論家は無視してきた。この『太宰治』は作家論であると同時にすぐれた文芸認識論にもなっている。

 5.初版本では「あとがき」であった「太宰文学奪還」が、増刷版では「まえがき」に位置づけられている。これは読者を意識されてのことだろう。今もなお相変わらずの『右大臣実朝』論がまかり通り、それが解説のかたちで若い読者において再生産されているような現実に対する、鋭い切り込みである。だが、文壇のギルド的存在(p.105)が依然として指摘できる現状では、この本は評論家たちに黙殺されるかも知れない。そういう意味でも、この本自体が異端の文学系譜に属している。

 6.評価の軸をどこに置くかが問題だ。自己の感動を絶対化せずに、階級的立場を踏まえて生活感情を捉え直すことこそ肝要ではないか。読者を一応問題にしてはいても、自己の階級的主体を問おうとしない学者や評論家が何と多いことか。

 7.作者と読者の関係ということについて、ガンペッタのラッパ兵(p.110〜)の話を是非想起して欲しい。あの状況の中で何故ラッパが吹けたか。それは周りの兵たちへの信頼があったからだ。兵士相互のメンタリティーが相応じていたのだ。もし兵士一般(むしろ普遍)に同質の感情がなかったなら、ラッパ兵の行為は不発に終わっていただろう。文学の仕事は、このラッパ兵の行為と同じだ。
 もっとも、鴎外自身は、このラッパ兵のメンタリティーのおもしろさというようなことを意識してはいない。文教研ではギュヨーの読者論(p.111)に学ぶことで、鴎外から一歩出ている。このように、文教研の読者論は鴎外とも芥川ともちがっているのだ。
 また鑑賞が創造に先行する、というこの読者論(鑑賞者論)は、文学系譜論とけっして別のものではないし、“外祖”の問題にもつながるものだ。

 8.芥川が鴎外の『意地』を何度も読み返したことや、『山椒大夫』の鑑賞──とりわけ会話のすばらしさへの感銘──と『羅生門』第二次改稿との関連など、これまでしばしば話題にしてきた。また、“芥川を越える”ことを強く意識していた太宰(p.262〜)について考えてもきた。先行者からの自覚的な受け継ぎと発展がそこに見られる。
 こういう姿勢はまた、私たち文学教師にも求められるものだろう。

 9.古典の永遠性を認める考えや、作品の価値はそこに描かれている客観的真実の量の多さで決まるといった考え方とちがって、熊谷先生は作家の内部を追求しつつ読者論を構築して来られた。
 ところで、この鑑賞あっての創造という鑑賞論──“内なる読者論”──は、もともとギュヨーにあったというものではなくて、熊谷先生による発展的受け継ぎによるものではないのか。ギュヨーの訳本を見ると、熊谷先生による紹介のようには明快ではない。

 10.太宰が「自己の経験もせぬ生活感情」と言っている(p.33,14)のは、ギュヨーの考えに本質的に通ずるものだ。「感情の経験」という指摘を大事にしたい。創造と鑑賞と言うけれど、鑑賞とはすぐれて感情の問題である。

 11.文学史は読者中心に組み立てるしかない。作家は天才で我々読者は平凡な人間だ、という考えを克服する必要がある。私たちの中にも、どこか、やはり作品がまずあってそれを鑑賞するのだ、という考えがありはしないか。

 12.文学がアピアランスだということ、感動においてこそ実在する現象だということをおさえれば、読者論に立つ文学史しかありえないことは明らかだ。系譜論もここから出てくる。

 13.増補版の冒頭(p.3)で、“リアリズム志向のロマンティシズム”ということを掲げていることに注目したい。文学の基本はロマンティシズムであること、その感情あってこそ創造も鑑賞もあるのだということが、強く打ち出されている。

 14.その他、p.317, p.221, p.224,(p.80, p.171, p.307)等々、書き換えや、書き足しも多く、この本が単なる増補版ではないことに留意して読み返したい。



1987/5/9 347

4月第二例会報告(『増補版 太宰治』の検討 続)
S.F.

(前略)
@全体像について
 (ア) 〈リアリズム志向のロマンティシズム〉という枠組みで考えようとしている立場は明確だ。一つのことを角度をかえていろいろな側面から解明している。ロマンティシズムとは、リアリズムをリアリズムたらしめる、その精神構造のことだ(p.4)という指摘。精神構造とは認識のしかた、認識の問題であり、そういう立場で文学的イデオロギーが明らかになっている。世にいう太宰のロマンティシズムは感性的・情緒的とらえ方で、誤りである。「太宰語録」は、作品の内側から太宰のロマンティシズムとそれに形成されている文学的イデオロギーが再構成されているものである。

 (イ) 偏見の多い大学生を相手の講義で、太宰ファン(『人間失格』『斜陽』)とアンチ太宰(ヒロポン・酒・女・etc)の太宰観のゆれが生じている。つまり、それは「語録」の「以後、ボクノ文章読マナイデ下サイ」「いやなら、よしな、である」「心づくし」等を読むことで、偏見を見なおすきっかけにしたい。それは、「語録」の太宰の文体にふれることで、今まで狭い、一面的な太宰観をゆさぶられるからである。そういうことで、「抽象的思想への情熱」を問題にして、『心の王者』から太宰文学に入っていけると思っている。

(中略)

A「達成点」と「達成に向けて」
 (ア) 達成点とか到達点とか、使うべきではない。「達成へ向けての」という視点でみることが大切だ。たとえば、p.9の「達成へ向けての可能にして必然的な作品形象のありよう」、p.309「『実朝』が太宰文学の達成へ向けての可能的・必然的な性格を持った作品だ」のように。最後の作品がその作家の到達点(これが最後だ、ということ)とする考え方は、くだらない。いつでも可能性はもっている。だから、文学は系譜論の立場をとるし、作品を内側から検討することにもなる。常に可能性のある存在である。この立場で、文学史、人間史、自分史を考えるべきだ。

(中略)

 (カ) 『右大臣実朝』でも、「人間としておもしろみのある人間」というとらえ方は、完全人間(達成点)ではなく、あくまで可能性においてとらえている。また、読者の側にそういう視点を持ったときに、おもしろみがわかってくる。作品を内側から読むjということは、こういうことである。

 (キ) p.80「いいかえれば」以下は、新しく書き加えられたもので、この部分は決定的であると思った。「サンボルでなければ語れない人間」として行動する時、そこに作家が誕生する。自己の内面に虚構することで、象徴でしかものを語れなくなる、そうなり切る、──これが可能な必然性を模索していくことであり、これ以外に文学精神はないし、文学的イデオロギーの展開もない。従って、これを押さえておけば、文学的イデオロギーがどう創造されるのかということ、また、市井人と作家との関係ということも明確になってくる。

B志賀直哉批判
 (ア) 志賀直哉にはロマンチシズムがない。リアリズムの真骨頂というのはウソ。ロマンチシズムのないリアリズムなど、ありえない。

 (イ) p.193に志賀の否定が書かれている。文学的意味と意義を喪失してしまっている、と。従って志賀のリアリズム+宮本百合子のロマンチシズムで、文学史を問い直す視点が明確になっている。

 (ウ) 宮本顕治の『敗北の文学』論に対しても、きっちりと否定できる立場が明確に示されている。

 (エ) p.288「シンガポール陥落、ばんざい」(志賀)と「われは山賊、うぬが誇りをかすめとらむ」(太宰)が対比的に位置しているが、志賀直哉には、母国語文化を情熱こめて愛する、情熱をこめて現代日本語をつくり出そう、というものはない。だから、日本語を廃止してフランス語に、それもできないなら英語にしてしまえ、という。日本文化、母国語を愛する、ということがない。文章家かもしれないが、作家とはいえない。志賀の精神構造に、ロマンチシズムはない、リアリズムもない。

 (オ) 「ゲーテのドイツ語」に対する、「志賀の日本語」という位置には、全くない。志賀は日本語を否定している。

 (カ) 山手言葉をそのままではなく、それを下地にし作りかえて自分達の言葉を創り出したホトトギス派(漱石、寅彦など)の情熱のある行動に対して、志賀は目の前の言葉をそのまま使っていて、言葉を創り出していくというダイナミックなものはない。志賀的文章を平易でよいとするのは、まちがいだ。

 (キ) 日本語を創り出していく過程を、『灰燼』『思ひ出の記』から始まり、ホトトギス派、そして異端の系譜につながる文学者たちの仕事の上に見る、という熊谷提案を検証してみる必要がある。

(以下略)


1987/5/23 349

5月第一総会報告 新しい、言文一致への模索 
T.M.

 〈言文一致〉というと通説では、文語文から口語文への移行をさす場合が多い。
(中略)
 今次集会[文教研第36回全国集会]は、こうした“常識”に反旗を翻すことになる。という点をまず自覚したい。「文学と教育」126号の「言文一致と近代散文の可能性」(熊谷先生の講演記録)は、私たちに大きな示唆を与えている。「実際に文章を書く過程で、実際に使っている、また使われているような、話し言葉による言葉操作のしかたを、より正確で、よりみずみずしいものに改変しつつ、同時に(まさに同時的に)文章表現として適切で的確な言葉の選択と配列の仕方を考える、というのが言文一致の表現へ向けての現実の行程でありましょう。〈言〉と〈文〉は重なり合う面のあることは言うまでもないとして、やはり〈文〉は〈文〉なのであって、〈言〉とは別個のものなのです。」

 文学者たちの心血を注いだ文章創造の歴史は、さまざまなコースがあったわけだが、決してはじめからそこに日本語の文章があったわけではない。形象的に言葉操作しつつ発想そのものを高めるという相互の関連がみられる文章こそ、私たちが求める〈言文一致〉の作品といえる。それは「自然主義から白樺派への流れ」ではないように思える。

 徳冨蘆花の場合、その文章のあり方を検討することはほとんどなされない。イデオロギー的側面やその人間性の特異さ、あるいは大衆作家としての位置と興味が勝ってしまうむきがある。ほとんど同時期に書かれた作品『灰燼』と『思ひ出の記』、そこにみられる、ことばによる果敢な実験精神を、今再検討する時期に来ていると思う。紅葉の『金色夜叉』→『不如帰』→『灰燼』→『自然と人生』→『思出の記』という追い方を今模索中である。


1987/6/27 352

6月第一例会報告 続き
 T.K.
(前略)
 [報告は]そのあと、漱石ら三人の作家の、雑誌「ホトヽギス」と関りを資料によって示し、概ね以下の諸点について指摘した。すなわち、@三作家に共通して、「ホトヽギス」と関りながらの長い文章修業の段階があったこと、Aその営みは「書きたいから書く、書かねばならぬから書く」というアマチュアリズムに貫かれていること、Bそうした段階を経て、『吾輩は猫である』以後の漱石、『千鳥』の三重吉、『団栗』の寅彦があること、そしてCこれらの作品と文章修業時代の文章とでは、発想・文体の相違が著しいこと、などである。

 討論の中ではさまざまな重要な問題について話し合われた。それらのうちの二、三を以下に摘記する。
 (1) 『三四郎』の汽車の中の会話をめぐっての報告にふれて、直接話法・間接話法というヨーロッパ語(主語中心)の文法概念を日本語(述語中心)に適用することは妥当でないことが確認された。

 (2) 『三四郎の言葉は熊本方言でない」云々、をもう一歩進めて考えてみたいということ。三四郎は旧制高校を卒業したての人間である。自らを、ある意味にインテリゲンチャと位置づけ、言葉も東京山の手言葉で話す。その点では、現実の高校生活のありように即した表現になっていないか。(通常なら大学卒業の歳である「23歳」の三四郎についても話題になった。)

 (3) 『千鳥』を中心に据えて報告を組んではどうか、ということと関連し、『千鳥』の文体的特性としての「俳諧的なもの」について熊谷先生から重要な指摘があった。即ち、『千鳥』には、「ホトヽギス」流の想念・観念と結びついた「俳諧的なもの」、俳諧的文体が随所に見られる、ということである。具体的な事例として示されたのは、例えば次のような箇所である。(頁は文教研版『文学教育読本 U』による。)
 ○p.2 「女の人がのこりと現れて」──(身についた「俳言」が、使おうという意識なしに使われた。)
 ○p.11 「狐饅頭」──(俳諧の笑い。)
 ○p.23 「短い影法師を引いて行く」──(近代俳諧に打ち込んだ、または囚われた人の表現。)
 ○p.23 「自分の声の入っていく跡が見えるやう」──(気取りではなく、俳諧的表現だ。)
 ○p.35 「白髪の下へ嵌めて」──(カラッとした笑い。だが、その裏に涙も見えている。蕉門俳諧の行き方。笑いで物事の本質を捉えていく。)

 (4) 「写生文」は俳諧精神を真に生かしえていない。「写生文」との非連続面が出たとき、そこに「近代散文の成立」をみてよいのではないか。『千鳥』と「写生文」との、連続と非連続について考える必要があろう。(ちなみに、漱石は俳句の名人でありながら俳諧的なものをぐっと引き離していく。)

 この例会においてもまた、重く興味ある課題をいくつか抱え込むことになった。


1987/7/26 354

7月第一例会(『右大臣実朝』再説)報告 
M.T.
(前略)
 討論の中で指摘された主要な点を以下にメモふうに記す。
 ○『右大臣実朝』は、ナレーター(近習)の実朝に対しての思い出・回想に違いないけれど、特定の人に、特定の人が語っていることを、いつか忘れている(二章あたり)。先へ読んで行くと“忘れてくれるな”と思い出すというナレートのあり方。井伏を超えている。

 ○ カタカナ書きの口言葉は『右大臣実朝語録』ともいうべきエッセンスで、すごい文体。「スグ馴レルモノデス」「酒ハ酔ウタメノモノデス」「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ」「平家ハ、アカルクテヨイ」……。鴎外・芥川・井伏にも出来ない、歴史の重みを持った言葉。翻訳不可能な文学のことば。シニシズム。

 ○ 長編小説『右大臣実朝』の魅力をトータルとして、“線”として捉える。(短篇的扱い、ヨセ集めではダメ。)井伏における長編『かるさん屋敷』『多甚古村』と太宰の『右大臣実朝』との対比、非連続面を捉える。太宰の達成、可能性において達成したもの、この深さ、高さ、極めつけの形(作品)である。

 ○ 太宰が『右大臣実朝』において達成したもの、ここにこそ、すばらしい日本語が実現している。“ゲーテの母国語”に近いものとしての“太宰の母国語”を感じる。

 ○ 全国集会のプログラムは一つの長編小説である。ヨセ集めの部分主義ではダメ。文体論が出て来なくては。根本が欠けていては、おもしろくも何ともない。“逆立ち”してでもガンバリましょう。


1987/9/22 356

8月総会(8/10 於、烏山区民センター) 略報

 ──年度内で何回か、例会計画が発表される。そこで、ひとりひとり自分の“分担課題”が明らかにされる。ところが、その受けとめ方を見ると、前の例会にどんな事があったなんていうことは関係無しに、自分で勝手に決めたテーマで報告する。これは、ちょっと極端な言い方だけど、それで済ませてしまう、ということがなかっただろうか。ほんとは、当面する自分の課題以外のところを、どれだけ自分のものにしているかで、自分のほんとの“分担課題”が見えてくるのではないですか!?
 これ、研究姿勢の基本だと思うけど……。〈文責、S.A.


1987/10/10 357

9月例会(9/26) 報告(K.K.)から
 ★ 熊谷先生が提出なさった「抽象的な思想への情熱」とはどのような概念内容のものなのかを、各人明確にしようということになった。

 臼井吉見が、左翼・マルクス主義に限定してとらえていた、さらには、固定的なものとしてとらえていた「抽象的な思想への情熱」ということを、熊谷先生は、文学的イデオロギーの問題として、また、動的なものとして大きく位置づけを変更されている。
 北村透谷は『人生に相渉るとは何の謂ぞ』の中で、次のように述べている。「吾人は記憶す、人間は戦ふ為に生れたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして、戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを。……彼の一生は勝利を目的として戦はず、別に大に企図するところあり、空を撃ち虚を狙ひ、空の空なる事業をなして、戦争の中途に何れかへ去ることを常とするものあるなり。」これこそが本当のリアリズム志向のロマンチシズムではないか。「抽象的な思想への情熱」ではないか。透谷はそういう情熱を燃やしつづけた。その情熱、発想があの文章の響きやリズムを作り出している。それが現実変革の可能性を秘めている。そういう意味で、透谷は文学的前衛として位置づかないか。
 それを受け継いだ文学者の系譜として、芥川−井伏−太宰と考えられるのではないか。異端の系譜である。

 ★ その「抽象的な思想への情熱」が個々の作家の当面した問題として、そこでの文学的イデオロギーの問題として問われる必要がある。芥川の場合は、太宰の場合は、という形においてである。

 ★ そうした時、芥川の「教養的中流下層階級者の視点」というのが見えてくる。この「──視点」では、マルキシズムをどういう形でくぐっているかは抜かせないだろうが、同時にマルキシズムに限定されるものでもない。それはマルキシズムの受け継ぎ方が、良き意味でサブジェクティブであり、主体的であるからこそ、言葉を換えれば、自己のプチブル性を見つめているからこそ変革につながる、そういう視点を獲得し得たということである。決してプロ文学の視点ではない。唯物史観一般などということではないからである。

 ★ 自己を見つめないかぎり、何も文学としての問題は出てこない。マルキシズムに直接つなげるのではなく、文学的イデオロギーとしてみる時、透谷ともつながっていくし、芥川を受け継ぎ、さらに乗り越えていった太宰へとつながってくる。むろん、太宰が芥川を越えた、というのはその時代の課題を芥川的に追求したということでもあるが。


1987/10/24 359、360

10月第一例会 太宰治『葉』を中心に・続き (S.F.〉から
(1)印象の追跡としての総合読み−地づらと図柄−
 @ N.T.氏は[話題提供に]〈二人の異邦人〉というタイトルをつけた意味について、読みの構えをつくる立場で明らかにしたいという。最底辺の生活を余儀なくさせられている人々──花売りの女の子と支那の人は、没落した白系ロシア人の娘として、また一人は、20年戦争下の日本に生きている支那の人として対象化されている。疎外された〈二人の異邦人〉にほかならない。花売りの女の子を「おや、ネルリ!」とつぶやきながら通る作中人物がいる。このように自己の主体的真実を探りあてる形で、私たちもイメージを明確にしていきたい。それは、普遍につながる個の発見であり、そうした発見を可能にする描写文体がここに実現しているからである。
 Y.R.氏は、前回の反省に立ち、冒頭の日本橋の部分について、読みのリズムを大切にし、寂れた日本橋と花売りの女の子を丸ごとつかむこと、そのために、冒頭を読み誤らないように話題提供したいと述べた。

 A 以上を受けて、熊谷先生から、授業の体験を踏まえつつ、冒頭部分をどう具体的につかむのか、と問題が提起された。さらに、西鶴の『大下馬』序文に登場する「四十一まで大振袖の女」という人物像のおもしろさ。人間五十年が常識の時点において、四十一まで大振袖の女というのは、今に翻訳するなら、七十歳過ぎての売春婦ということになろう。それは、日本橋の「三十七間四尺五寸」という数字のおもしろさとつながる。この冒頭で、そのおもしろさを感じることの大切さが指摘された。その意味ですぐれた描写になっているという指摘である。
 これを受けて、A氏ら多数の発言があった。記録者の把握で、次のようにまとめたい。

 B Y.A.氏の発言。冒頭の日本橋、昔は大きく豊かであったが、今は名所でも何でもなくなっている。しかし、日本橋にかかわって、そこで生きてきた人の実感でとらえられており、短い中で日本橋の歴史が語られ、その没落のあり方が発見される。その日本橋で花を売る女の子、それは両親の幻影に由来している。人通りの少ない日本橋、それにしがみついてでも花を売らなければならない没落した白系ロシア人の生活。それは二重に疎外された人としての異邦人であり、それは支那の人にも通じる存在である。
 これにつなげて熊谷先生の発言。この冒頭部分はY.A.発言のように、十分におもしろい表現であり、初めからおもしろさを感じるし、後で読みかえしても、さらにおもしろみを感じる。ここで、おもしろさを感じる読者は、女の子の「カエリマス」を誤解する支那人に、親しみの思いをいだくにちがいない。だから、「美しく禿げた頭」にもおもしろさを感じるのだ。

 C 次いで、I.M.氏の発言。機関誌「文学と教育」83号(73年11月)の熊谷論文にふれて、文学の構造としての“地づら”と“図柄”に言及した。冒頭を、あるたのしみ方で読まなければ、それは“図柄”にならない。次いで、それが“地づら”となって、女の子が“図柄”となって浮かび上がってくる。部分と部分の相剋の中で、ダイナミック・イメージがみえてくるのだ。

 D さらに、熊谷先生の「国語教育としての文学教育」というテーマをどう生かすのか、という提案を受けて、N.T.氏の発言。そのテーマに従って、「読みとは何か」という問題を明らかにすることが大切。つま
り、「印象の追跡としての総合読み」を明確にし、一回だけではなく、何回も読めることの楽しさ、太宰文学の読みの特徴を明らかにしたい。それは、太宰文学の緊張した文体をつかむことにつながるだろう。

 E このように「印象の追跡としての総合読み」が明らかになり、“地づら”と“図柄”の相互関係をとらえた時、次の二つの問題はおもしろかった。
 ア.乞食について──乞食の存在は端役であるが、見ようによっては主役だという熊谷先生の指摘。さびれた日本橋は、乞食にとっては、かっこうのかせぎ場所。そこで花を売る女の子は乞食に準ずる位置にある。花売りの女の子の存在理由が明確になる。“地づら”と“図柄”の関係である。さらに、ダンサーや学生の登場で、ダンスホールの位置など、その付近の地理も見えてくる、という指摘。さらに、松葉杖の乞食はほんとに足が悪いのだろうか、という指摘に、はっとする。文学として、どう感じるか、の問題である。
 イ.花売りの女の子について──支那の人との会話をとおして、“ネルリ”から変化しているのではないかというY.A.氏の指摘。支那の人の勘違いに気づいている女の子、それはサギ師と区別されるウソツキの、ウソをつかざるを得ない人としてのウソつきの女の子だ、というN.T.発言。ひきしまった表現になっている。“サクヨウニ、サクヨウニ”とたどたどしい日本語で囁く女の子。心から緊張している姿勢を感じるという熊谷発言。祈りのことばとしての日本語、というYg.A発言。
 これらを受けて、Yg.A.氏、Y.R.氏、は話題提供すべきことが明確になったとあり、、N.T.氏より、ネルリについて、ドストエフスキーの『虐げられた人々』の内容をコメントしたいという発言があった。

(2)怒濤の葉っぱの世代の文学−徹底したリアリズム志向のロマンチシズムの文学−
 @ Y.A.氏の報告は次のとおり。〈留置場〉(『葉』所収、1934/S.9)の怒濤の葉っぱの世代から、暗い谷間の世代を経て、転向の苦悩などとは無縁の後続世代への呼びかけとして、『心の王者』(1940/S.15)が書かれていること。この間における太宰の文学的発展とつなげながら、『心の王者』を報告したい。基本としては、『太宰治』のp.26からp.28の指摘をおさえておきたい。世代の受け継ぎと太宰文学の視野の広がりの中に、『心の王者』が位置づくからである。

 A 〈留置場〉について。抑圧された階級の解放のために、自分をなげうって、階級的自己否定の上で生きていく──そういう世代のイメージがとらえられている。形象的に、階級的な疎外状況が描かれている。若い巡査部長に教練をやらされている年配の巡査たち──彼らを切り捨てるのではなく、被疎外者としてみていく。闘いの放棄ではなく、敵の中にも「人間」をさぐり続ける新しいタイプが描かれている。人間へのあたたかい目で、人間把握がなされている。この階級的視点が『心の王者』へつながっていく。
 『心の王者』は、面会に来た二人の学生が「ちゃっとした駈引きなどもあり、なかなか老成し」た様子であり、その世なれたあり方を「不憫」に思うところからはじまる。学生のあり方として、「思索の散歩者」「神の寵児」「詩人」の生きかたが問われており、「神とともに住める」特徴を述べている。それはリアリスティックな行動選択のできる人間への期待であり、リアリズム志向のロマンチシズムの視点的立場からの自己確認と自己否定への期待でもある。これは、太宰が文学教師の眼で書いたものであり、本当のロマンチシズムを感じる。

 B 階級の問題は、教養的中流下層階級者の視点として、基調報告でA.Y.氏が「抽象的な思想への情熱」との関連で述べること、また芥川龍之介の文学で、S.T.氏が述べることを確認した。

 C その上で、熊谷先生から、太宰をオプティミスティックにとらえないように、という批判があった。Y.A氏もそういう反省の上に、怒濤の葉っぱの世代の太宰について、とらえ直す必要を語られた。

 熊谷先生は『鴎』の把握が非常に不十分であったという反省の上に、『善蔵を思う』の「まるまると太ったいい子」への期待と、私は滅びる、という自覚に立って、苦しみ抜いている、怒濤の葉っぱの世代の太宰を考えたいと述べられた。それは狂乱の時代であり、そこに生きていくには〈狂人〉ににならざるを得ないのではなかろうか。世間からは〈狂人〉と見なされざるを得なかった、ということであろう。というよりは、強靱な姿勢で〈抽象的な思想への情熱〉を堅持するとき、太宰のように、徹底した、ごまかしない生きかたをすれば、あのようにしか行動が選びとれない。戦後、太宰は『十五年間』という作品の中で、この時代に一つの旗をかかげて生き続けることのむずかしかったことを語っている。

 ☆檀一雄──赤紙が来て、これで救われたと、電柱にぶらさがった。これからは命令で生きていけるから。これに無頼派の文学のすごさを感じた。
 ☆山岸外史──常識との徹底した闘いのための旗、〈自由〉〈純粋〉〈真実〉を絶対におろさなかった反俗精神。小ずるさがみじんもなかった、ほんとうのロマンチスト。
 ☆臼井吉見──その特徴づけ、前にも後にもない世代、常識をはずれた文学。

 檀や山岸がいうように、いい悪いではなくて、粉々に自分が砕けるまで徹底する。だから薬も飲まざるを得ない。適当にやっているならば、〈狂人〉にはならない。そういう苦悩を持った作家としてみた場合、「進歩的知識人」のように、小ぎれいにまとめてしまうのはまちがいである。人間らしい人間として滅びの道を選んだ、適当さがみじんもない生きかた。人種が違うという感じ。『心の王者』は、地球の配分にあずかれないという自覚のもとに、次の世代へ呼びかけている。

 その点からみて、井伏鱒二の「待つ」精神の偉大さがわかってくる。井伏は、太宰を精神病院に入れて薬をぬいた。

 D こうした中で、〈思索の散歩者〉ということで、きびしく自己に要求しつつ、きびしいとらえかたをしている、というN.T.発言、『葉』から『心の王者』へと太宰の一貫性が明確になった、というY.A.発言があった。


1987/11/1 361

10月第二例会 報告 T.K.
 この例会は、来たる11月1日の出版記念集会へ向けてのリハーサルに当てられた。この中で熊谷孝先生によってなされた数々の御指摘は、とりわけ私たちが太宰文学を受けとめる姿勢の根本に関わる重要なものであったと思う。今回の報告はそこに焦点を絞ってまとめてみることにする。

 (1) 『心の王者』と『教師が教師でなくなった日』
 前回、Y.A.報告をめぐって話題となった『心の王者』に例をとって熊谷先生は言われた。「今の学生諸君の身の上が、なんだか不憫に思はれ」るという太宰の言葉を、“不憫なやつじゃ”というように大所高所に立って言っているものと誤解してはならない。自分も、不憫な人間──文化性の弱い学生、を造ってしまっている犯罪者である、という意識がどこかにあって、そういう人間の一人として問題を投げかけている。つまり、自己の問題として、自己の主体の問題としてぶつけているのだ。その点を、ともすれば私たちは外してしまいがちである。

 先ごろ出された都高教の意見広告『教師が教師でなくなった日』(10月2日、朝日新聞他)の文章から私たちは、「四十四年前、我々は教師でなくなったのだ、教師の資格を失ったのだ」という叫びを聞くことができるが、時代は違っても、この叫びと同じものが太宰にある。
 この都高教の『教師が教師で……』は、犯罪を生む人間の一人としての自分、すなわち“犯罪者”という自覚に立つ自己を、もっと極悪人に仕立てようとする体制側との闘いの宣言である。都高教のこの宣言文は内部での共同討議を経て成ったものであろうが、その教組もそして執筆者も、決して大所高所に立ってものを言ってはいない。「教師が教師でなくなった」状態から、今、回復できているのか? できていない、というところから始まっているのだ。
 ここに示されている視点、そして太宰が訴えているような視点、これが11月1日の我々の集会に失われたらいけない。単なる作品論の場ではないのだ。基調報告以下、すべてのパートにこの視点を貫いてほしい。

 (2)オプティミズムの問題
 S.T.報告では、太宰が芥川を超え得た側面ということに焦点が絞られたわけだが、T.M.報告の中で、『右大臣実朝』の太宰が井伏を超えている側面については、どのようにとらえられるのか、と問いかけられながら、熊谷先生は、個人としての本音を言えばということで、次のような見解を示された。

 多分、『実朝』という作品は『さざなみ軍記』を超えている。それはオプティミズムの面において超えているということだ。『実朝』には終始一貫オプティミズムはない。『さざなみ軍記』には、オプティミズムの香だか、ひびきだかが漂っているような気がする。『さざなみ軍記』の公達は、「私は私の階級自体から逃げ出したい」と、内心では絶えず逃げたいと思い、逃げきれない自分にもどかしさを感じたり、そこが素敵でもあるのだが、遂にオプティミズムから抜けられない一面をもっていた。
 同じプロ文学時代に活躍したこの井伏と太宰という二人の違いを感じる。二人の文学的イデオロギー──もっと一般化した言い方をすれば、プシコ・イデオロギー、さらにいえばメンタリティー──の違いみたいな、また、世代の違いみたいなものを。井伏は留置所にぶち込まれたり、始末書を書かされたりというところは、みごとにくぐり抜けて通ってしまっているし、また通れた人であるし、通れたジェネレーションでもあるような気がする。太宰のジェネレーション、津島修治のジェネレーションで、一回でも留置所の門をくぐったことのないまま生活をしていたとしたら、バカだ。彼はそういう意味では、バカでなかった。が、損なことをやっている。そこに、何か、ある違いを感じる。それを抽象的な言葉で言えばオプティミズムの問題だ。これから井伏論を書き替えるときには、そういう点に触れたいと思う。

(3)図式主義
 図式にうまくまとめ上げようというような報告が行われることには反対だ。さっき言った“大所高所”でない視点で、というのはそういうことだ。
 図式が出来ないうちは話せない、というものではない、というのが一点。それから、図式としてまとめようと思うと、必ず大穴が、より大きな穴があく。私は、あの、論文という形式に敬意を払わない生きかたをしてきたが、論文というやつは、つまり結論が用意してあって、それを、シナリオに書き直したものが論文と称するものらしい。そんなもの犬に喰われろ、と思う。図式を作る芸術認識論ではなくて、本当の芸術認識論・文芸学というものが、自然科学とはまるで違うし、経済学とも違う、その違う点は何だろう。その問題を抜きにして考えるのは間違いだ。文芸固有の性質にそって。そこを対象として(客体の中の対象面を切り取って)、やっていくのが文芸学とか文芸認識論というものだと思う。
 だから、本音を出し合って考えていこうというY.H.司会者の言葉に賛成。報告者が自分の問題として、イエス、ノーを用意しながら報告するか否かで、全然ニュアンスが違ってくる。すなわち、“大所高所”煮立つのかどうかの違いだ。

(4)トカトントン
 『トカトントン』は、疎開先で、東京の友人から送ってもらった月遅れの雑誌で読んだ。ちょうど二・一ストの頃であっだから印象が深い。何をやってもトカトントン、太宰流にいえば、聞こえちゃう。これ“しらけ”だったら、自分もしらけているのだけれど、しらけではない、という叫びが出てきた。
 今日の学生の皆さんはトカトントンが聞こえない人なのだ、どんな場合におかれても──。そういうことを訴えて、集会当日の私の話を終ろうと思う。
 トカトントンが聞こえなくなっているから、だめなのだ。聞こえなくなると楽天主義(オプティミズム)になる。楽天主義による大所高所からの太宰論はやめてくれというのが、私の願いだ。トカトントンがみずからの耳に聞こえてくる視点で、問題にしてほしい。

 ──大所高所、オプティミズム、図式主義、トカトントンが聞こえない……どれ一つをとってみても他人事として済ますわけにはいかない。自身の現実に対する構えの歪みや温(ぬる)さを改めて厳しく問い直される会であった、というのが実感である。

1987/12/12 362

11月例会 報告 H.M.
 この日の課題は先日の集会[出版記念研究集会]の総括であった。

(中略)

 続いて熊谷先生から と文学研究(文芸の科学)との関係について考え合いたい、との発言があった。それは集会の否定面を今日はぶつけあう必要がある、という趣旨によるものであった。例えば、『葉』に関する話し合いにおいて、内部会員の反応が鈍ったが、それは勘の鈍さを示すものだったのではないか。我々は勘の名に値しないような勘の持ち主だったのではないか。先日の集会は、夏の全国集会の失地回復を目指した会として、トータルとしては失敗の会だったのではないか。──
 話し合いは、こうした問題的を受けて厳しく進行した。以下、熊谷先生の発言を軸に、私なりの要約を試みることにしたい。

 @ 人間には勘というものがある。作品を読むとき、勘が働く。最後までいかないとわからない、というものではない。その勘と、科学(文芸の科学)としての文学研究との関係をどう考えるか。

 A 自分はいわば勘主義者だ。勘がすべてではないかと思っている。そしてその勘も、眠らせておくと錆びてしまう。

 B (「勘」とは「思考の方向性」ということか、というS.A.質問に対して)勘という言葉は幅・広がりのある言葉だ。学問の言葉としてはアイマイ言葉だが、しかし大事なものだ。暢気なもの、だが厳しいもの、である。勘を軽蔑すると、狂ってしまう。

 C (「サンボル」「インプリケーション」という形で、私たちは今までも勘のことを問題にしてきた、というN.A.発言に関して)太宰が「サンボル」と言っているのを、角度を変えて言うと、「典型」ということになるだろう。二つの言葉には違いがあるが、別物ではない。同じことを言っているのだ。そういうつかみかたが大事だ。勘がなければ文学の科学の深まりもない。

 D (科学である以上、最終的には論理的一般化が必要だろう、というT.K.発言と、作品論は「理論的一般化」ではなく、普遍化をめざすものではないか、というN.T.発言、さらに、鑑賞は普遍化をめざすが、学問はやはり一般化を……というT.K.発言、などに関して)文学の科学の特殊性は何か。たとえば、経済学という科学とどう違うのか。私も、文学の科学である以上、一般化をめざすものであると考えていた時期があったが、今はそうではないと思っている。宗教の科学(?)について言ってみても、信仰を持っていると、科学に到達できない、というものではないだろう。

 志賀直哉こそ小説の神様だ、という人もいる。しかし私たちは、太宰の文学こそ、と考えている。この時私たちは、文学の科学一般 を考えているのではないはずだ。
 その方向に歩き始めている、というものがなければ、勘も何もない。例えば黒島伝治について、『電報』こそすばらしく、『豚群』では、だらけた、という勘、そういう勘が働いて、イデオロギーは大事だが、イデオロギー主義はだめだという、おさえも出てくる。無理に一般化しようとすると、文学 の科学でなくなってしまう。科学は安心立命のためにあるのではない。

 E (文芸認識論としての一般化、ということはあるのではないか、とのI.M.発言に対して)科学は一般化をめざすものだからといっていそいでそこまでいってしまえ、というのでは、おしまいだ。

 F (文学体験の独自性は認めるが、たとえば、例の逆三角形の図式──日常性と科学性・芸術性との関連を示すあの図式──自体は一般化ではないのか、というA.Y.発言に対して)文芸科学も一般に帰るのか? ちがうだろう。どういう視点から“文学とは何か”を考えるのかが重要だ。そうでないと、文学は科学の手段となってしまう。
 経済現象と文学現象とどうちがうか、同じなら、それぞれの科学も同じ性質のものになるが、対象がちがえば当然方法もちがってくるはずだ。

 G (では、文学のめざすものが普遍化であるように、文学の科学の方法もまた、普遍化だ、ということになるのか、というI.M.質問に関して)ピラミッドが出来るには、力学、経済力、美意識などが必要だろう。これらのうち、美意識を問題にするのが文学だ。その時、一般化の面が出てくることは確かだが、一般化と普遍化との相互の支え合いということがある。

 ──(話し合いは、もっと多面的に進んだのだが、敢えて単純化させていただいた。)K.K.さんの発言にあったように、私たちは日常生活において、勘に頼って判断することが多い。先が見えない中で、未来を先取りしようとする作者も勘に頼るしかないだろうし、読む者も勘を頼りに読むしかない。読者が自己の主体をかけて読んだ時、作品が胸に落ちる、のだ、その持続こそが大切なのだ、と強調された。またN.T.さんも『戦場』(花森安治)の描写を例にあげて、典型をつかみとることを可能にしているものが、作家の研ぎ澄まされた勘であることを指摘され、S.F.さんは、読者の問題として、勘と「感情の素地」との関係を説かれた。こうして創造主体における勘のありようと、創造完結過程における勘の問題が論じられ深められた。

 ところで、私自身の勘はどうなっているのか、「勘」は小手先のものではなく、全人格的なもの(K.T.)であり、全人格的の反応である印象をまっとうであるかどうか追跡するのが文学の科学である。(N.T.)のだが、私の勘は果たして、太宰文学の勘所をおさえていたのかどうか、押さえられる自分であったかどうか、「太宰文学が問いかけるもの」について、思索し続けたい。


1987/12/26 364

12月例会(12/12) 報告 Y.R.
 
冬合宿で上田秋成の「菊花の約」(『雨月物語』)を扱うことになっているが、そのことも含めて、熊谷先生から〈文学の科学とは〉ということについて話された。以下は私なりの要約である。

(1)
鑑賞と文学の科学と
 
鑑賞なくして文学の科学はない。そのことはいいとして、しかし、その鑑賞ということを、あくまでも文学の科学の前提であって、科学ではない、と考えてはいないだろうか。文教研は、鑑賞+科学の会なのか。鑑賞と科学は別のもの、という二元論に陥るとき、作品の読みも相対主義になってしまう。それは非科学的であるということだ。まっとうな鑑賞を成り立たせるための文学の科学であるはずだ。鑑賞がまっとうな方向に深まったとき、文学の科学の科学性も深まっている──そういう関係にあるのではないか。

(2)他の科学との支え合い
 どんな科学も、それ一つだけでは科学たりえない。他の科学との支え合いが必要である。文学の科学も、他の諸科学との支え合いがなければ、といういうことだ。例えば歴史学に文学の支えがないとき、みじめなことになってしまう。一例が西鶴である。歴史の教科書にのっている西鶴と、国語の教科書のそれとでは、全く違った理解のものになってしまっている。歴史学では、作者=作中人物というバカげた考え方がまかり通っている。作中人物=作者=その時代を生きた人間の心理構造、という図式化がなされ、そこから近世社会の民衆の精神構造が論じられていくのだ。これでは嘘になってしまう。これも、文学の科学の支えを拒否──無知による拒否──をしているためではないのか。社会の教科書への批判、こういう面からは、なされていないが、どうか。

(3)なぜ、秋成の「菊花の約」(『雨月物語』)なのか
 そういったことを具体的に「菊花の約」を読みあう──鑑賞しあうなかで、深めあっていくわけだが、なぜ、秋成の「菊花の約」なのか。秋成はいままでにも、西鶴や蕪村をやっていくなかで話題にされてきていた。しかし、正面からとりくんではいなかった。わかったふりの出来ない作家であり作品なのである。手垢の付いていない作品、しかも、太宰から逆照射したとき、異端の系譜の近世と近代とをつなぐところに位置づく秋成である。その秋成の、達成へ向けての重要な作品が、この「菊花の約」なのではないか、という作業仮説に基づいて、皆で検討しあいたい。

※“二人の異邦人”(太宰「葉」)について
 熊谷先生から、この“二人の異邦人”のところが、『葉』の心臓部分であることをつかむのに、二十年かかったんですよね、ということが言われた。

(以下略)


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