むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1985                *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1985/1/26 276

合宿例会まとめ(太宰治『葉』)
(例会“まとめ”であるべきニュースが、今回どうも、文責者個人の興味に片寄ったものになりました。トンチンカンな受けとめになっていたら教えて下さい。Y.H.

 「竜頭蛇尾」に終った冬合宿という熊谷先生からの厳しい指摘。先生の合宿総括であろう。が、どうして「蛇尾」だったのか、そのどの点が? はじめ、私にはわからなかった。
 しかし、例会後半、カート・ボネガットの講演(12/29 NHKTV)を媒介された先生の話を聞く中で気付かされていった。ニブイ……。
 ──「タバコ好きでテレ屋の」と先生は、1922年生れのブラック・ユーモア作家ボネガットを紹介される。彼は、小説なんてコンピューターで書ケマス、といって、『シンデレラ』の例をとり、タテ軸Good←→Bad、ヨコ軸Start→Endのクロスした軸に添って、その決定されているEndに向かって、GoodとBadの間を上下して進む物語を図示する。小説は所詮こうしたもの、コンピュータデ書クコトハ可能デス、とユーモラスに語ったという。
 ウカツな聴衆には、ナルホド、小説はコンピュータで書けるのか、と思わせるブラック・ユーモアの──つまり〈もし、現代人の実人生が、この“シンデレラの軸”でつかむことが可能ならばね……〉という鋭い反語、強烈なシニシズムの貫かれた講演であった、と先生は紹介された。

 これは、冬合宿の最終日(第3日め)、『葉』の13章、「死ぬ? 死ぬのか君は?」ではじまる小早川と青井の対話をめぐって討論がなされた際の、「小早川派」と「青井派」に分かれての、あれは……。現代の文学精神とは程遠い、前記の“シンデレラの軸”ですすめていたのではなかったか、という指摘につながった。
 “竜頭”かどうかはともかく、たしかに、今回の冬合宿では、文学認識論のおさえを意識して、『葉』を読みすすめようとしていた。また、「1930年代に二十代の青年期を迎えて、転向の苦悩を体験した」世代の苦しみを、『葉』の文学的現実としてみてきた。
 特に12章(「それから、まち子は眼を伏せて」)では、〈まち子〉の、ため息の聞こえてくることばも、〈僕〉の、あの辛さを耐えていることばも、この世代の「両側面」として、聞こえてこないか、という押えがなされていった。これは考えてみれば、ここの所で、すでに善(幸)Good←→悪(不幸)Badの軸と結末・Endにむかう「筋」追いの軸とで組み立てられるシンデレラ・パターンの中から造型された“主人公”概念では掴みえない文学的現実を、実感したはずであった。
 〈まち子〉のメンタリティーも、〈僕〉のメンタリティーも、十分に感じられながらも、相互が「狂言回し」となって高いレベルで、先生の言う所の「固有名詞が消えていき、二十世紀旗手世代の両側面としてみえてくるのである。13章でも言えることだろう。
 こうした造型方法意識にしっかりと眼をすえていかなかったために、13章にきて、いっきに私たちは崩れたのだろう。軸をかえてしまっていることをまったく気付かなかったのだ。
 今思えば、あの時の13章の討論、主人公の決めっこを、お互いにしていたのかもしれない。
 12章を押えながらも、13章で崩れる、これは先生の指摘にあったように、「文学史1929年」を画期とした、作者全知の方法の否定の問題──「ナレーター兼狂言回し」という発想で、つかまれた方法樹立の意義をまだ理解していなかったのだ、という他ない。
 例会終了後、1929年画期とは、従来の主人公概念からの脱却の問題でもあったのか、と理解したわけである。


1985/4/13  280  

2月第二例会ノート(太宰治『列車』総合読み その2)
〈I.M.報告〉
   この作品は“私”と汐田との違いを、階級的視点からもとらえているのではないか。汐田は少々内福な小地主のむすこ。自己保身にはしっていく条件がここにはある。そして、これは現在の中流意識にもつながるものだ。一方、“私”は大地主の(?)むすこ。そのことによって、あるいは、自分の歩む道を選択できる自由があった(のかもしれない)。
 階級と行動選択の問題をまるごとにとらえている作品ではないか。“私”の主体を通して、戦争の現実が明らかになり、汐田との関係において、戦争という現実がはっきりしてくる。『列車』とはそのような作品ではないだろうか。


1985/5/11 283

太宰文学のエポックとその読者層(4月第一例会)
 (このタイトルでのご報告の第一回として、今回は、1932年から40年にいたる、いわゆる日中戦争の末期までの時期を中心に先生のお話をお聞きしました。まとめ M.M.

報告:熊谷先生
 この時期の太宰文学の読者層として、先生は三つの世代をあげられる。
 〈怒濤の葉っぱ〉の世代──「いったい私たちの年代の者は……それこそ怒濤の葉っぱだった……はたちになるやならずの頃に、既に私たちの殆ど全部が、れいの階級闘争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。(『十五年間』)太宰自身の世代である。
 〈暗い谷間〉の世代──このような〈怒濤の葉っぱ〉の世代が大学を卒業する頃、入れ替りのように大学の門をくぐった学生が〈暗い谷間〉の代表的な世代である。熊谷先生もそのお一人であった。しかしそこでも〈怒濤の葉っぱ〉の状態は続いていた。この二つの世代の共通点は、彼等が抽象的思想への情熱を終始持ち続けようとした点にある。その抽象的なものとは、必ずしもマルキシズムを意味しない。マルキシズムを肯定あるいは否定する視点そのものを問題にしたり、自己の拠りどころをそこにみつけたり、それぞれが自己の言論による闘争をしていた。
 彼らは、大学を卒業した年に、二・二六という衝撃的な事件を体験している。この事件の体験の仕方が、彼らの世代形成過程に大きな影響およぼした。この世代の特徴は、人生二十五年を合言葉にしたことである。多くの人が大学を出て、一年か二年で中国戦線に送られ、その大半が戦死し、たとえ帰ってこられたとしても、不具者であったり、栄養が不十分なために若死をさせられていった。太宰が仕事をしたのは、この〈暗い谷間〉の時期であった。太宰文学の本来の読者は、この世代が中心である。ともあれ、初期の太宰文学を支えたのは、この二つの世代の読者であった。太宰の文学的イデオロギーの特徴はそこにある。彼もまた抽象的思想への情熱を死ぬまで燃やしつづけた作家であった。太宰の文学に息づいている“心づくし”は現実には踏みにじられていく。しかし、踏みにじっていくものに対して、太宰は文学をとおして、戦いをいどんでいった。
 芥川は口に通俗をののしりながら、実生活ではその通俗と誼(よしみ)を通じているずるい人間を批判した。太宰もまた、そういう人間を徹底的に批判し続けている。志賀直哉への批判、サロン思想への闘争はそこにつながるものである。
 第三は〈学徒出陣〉の第一号たるべく運命づけられた世代──太宰が三十代にさしかかった頃、二十歳になるかならないかの大学生たちであり、太宰のひと回り年下の若者たち、学徒出陣の世代、徴兵猶予の特権を奪われた世代である。これらが日中戦争末期までの太宰の文学を支えた読者であった。
 年表によれば、1932年、小山初代の過去を知らされ衝撃をうける。10月、大森ギャング事件(機関誌86 黒川論文参照)により、党を愛すればこそ怒りに燃えて離党を決意する。太宰のこの転向は精神の系譜において、昭和の北村透谷である。これらの体験が『魚服記』のモチーフになっているであろうことは否めない。
 1936年〈二・二六事件〉、これを契機として太宰の文学における変化(想念・文学的イデオロギーにある動き)がみられる。事件以前は彼自身の世代に向けて語りかけたものが中心であったが、そこにゆれ が生じ、他の世代にも少しずつ眼が向けられていった。『めくら草子』──お菊の気持、我々の世代の苦しみがわかるのは、我々の世代の者だけである。幽霊のになってでも出たいという思いは、吾が世代に向けて言われたものであろう。「すらだにも」と言わざるをえない実朝の気持もわかるし、またそれを批判した真淵のそれもわかるというふうに変わってきている。太宰にあるゆとりと視野の広まり が生まれてきたと見ることができる。「実朝をわすれず」の詩は動的で情熱的ではあるが、内心のはげしい怒りは抑制されている。この詩は実朝の歌を移調し再構成においてとらえ直している。(大海の磯もとどろに/よする波われてくだけて/さけて散るかも)
 こういうものの積み重ねのうえに、太宰文学の転機・エポックがつくられていった。『心の王者』では「学生は思索の散歩者である」べきなのに、……「今の学生諸君の身の上が不憫」だと訴えている。そしてさらに『三月三十日』では“満州の皆様へ”と更に視野が拡がっていく。こうしてみると、日中戦争末期に近づくあたりに、一つのエポックがあると見ることが出来よう。そこからまた新しい太宰の苦悩が始まる。「もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ」(『走れメロス』)、ここまでつとめてすらだにも──の精神によって、抽象的思想への情熱を自分にたえずかきたてながら、それに向かって進んでいった太宰の、文学に対する信条のほとばしりをそこにみることができる。


1985/5/11 284

太宰治『新郎』『十二月八日』 (4月第二例会報告) S.H.
 4月27日の研究会のねらいは、『新郎』『十二月八日』を中心として、太宰文学を探ることにあった。始めに『新郎』を中心に、太宰の文学を「心づくしの文学」と位置づけたN報告。そして『十二月八日』を中心として、パラドキシカルな表現の文学とみていいのかというH報告。その二つを受けて、検討に入った。初めの問題点は「新郎の心」とは何か(熊谷先生)と、『新郎』と『十二月八日』との文体的ちがいをどうおさえたか(A)との二つであった。

三部作としてみる
 この検討の中で、熊谷先生から出された三部作説には、みな大きな感銘を受けた。つまり、『新郎』『十二月八日』それに『待つ』は文学史的にみて、三部作としてとらえるべきではないか。〈待つ〉という姿勢がそこには共通してみられる。「一日一日をたっぷりと」新郎の心で生きようとしている。訓導、おばさん──などの登場で、作品として統一性に欠ける点はあるが、『十二月八日』は構成のカチッとした作品になっている。「婦人公論」に発表されてすぐに読んだ感動、励ましを受けたという感動も含めて話されたのは印象的であった。
 更に、太宰文学の第二の転機がこの時期ではないか、という点から『晩年』の世界、特に『道化の華』が『新郎』に息づいているが、この時期に自己中心的なつぶやき、私情性をふっきっていったところに、『十二月八日』が統一性あるものとして書かれている。これは、『右大臣実朝』につながるものである、という太い線が引かれた。
 これに前後して、A、N、I等、諸氏より賛同をこめて、方向が見えてきたという発言があった。〈心づくし〉と〈待つ〉との統一として、懸命に生きる姿の『新郎』(A氏)、緊張感のある生き方だから見えてくるという井伏『さざなみ軍記』とのつながり、芥川『青年の死』とのつながりがある(N氏)、等々の指摘があり、夕食後に、司会のS氏より、次のようなまとめがあった。──〈心づくし〉と〈待つ〉とは一体のものであるというとらえ方に立って、文学史的にみると、『新郎』『十二月八日』を核として、『待つ』の三作品を三部作としてとらえることができること、死と一体となった生き方、──緊張した生き方を骨太にとらえた作品群であり、そのようにつかむことの必要性、そして、芥川、井伏からの受け継ぎ明確にすること、等々である。

調子外れの歌
 『十二月八日』の最終場面にある「調子のはずれた歌をうたいながら」のとらえ方に、各人の本音があっておもしろかった。H氏は歌詞[下記「出征兵士を送る歌」参照]を知らなかった時は、調子っぱずれの歌い方、とのみみていたが、この報告のために、御母堂に歌ってもらって、はじめて、「調子のはずれた歌」のことがわかったという。同意見が多かったようであるが、いわれてみると、「──のはずれた」ときちんと書かれているのである。
 ──〔挿話〕熊谷先生に「婦人公論」掲載の『新郎』を示されたのも先生の御母堂であったという。熊谷先生は仲間と共に、“太宰ヤッタリ!”と話し合った、ということなどが紹介された。

〔補〕戦後の作品『苦悩の年鑑』『十五年間』の基本的発想は、「こんなことで日本が勝つとすれば、日本は神の国ではなく魔の国だ」ということである。当時の知識人の間には戦争についていろいろの考えがあった。(国体が壊されるような敗戦につながる無謀な戦争をやった、とか、国が破れて初めて民衆のための政府が生まれる、とか)しかし、『苦悩の年鑑』等をこれらと結びつけるのではなく、『十二月八日』という作品に結実した太宰の文学的イデオロギーとのつながりを押さえることが重要なのだ。(以上、熊谷先生)
この歌うたえるひと?
我が大君に召されたる
命はえある朝ぼらけ
讃えて送る一億の
歓呼は高く天をつく
いざ征け つわもの日本男児

(「出征兵士を送る歌」)

1985/5/25 286

5月第二例会 報告・討議メモ

 報告者はF.T.さん。テーマは「日本の教育と文学教育」。この題にある「と」は単に並列の「と」ではなく、文学教育をとおして日本の教育を変えていく……という発想に立っているのだ、ということが確認された。
〈報告の柱だて〉
1.教師の人間をとおさない教育は、教育ではない
2.あるのは“私の文学教育”
3.文学教育

 今、臨時教育審議会が考えていることは、適応・対応の論理に基づく教育観に立って、日本の教育を変えようとしていることであり、これとはっきり対決しなければならない。「自由化」とは、教師の自由とは全く異質のものである。いろいろ内部でもめているようだが、彼らの言っている「個性主義」とは、文教研のわれわれが言っている「個性」(『文体づくりの国語教育』p.192参照)の概念とは凡そかけ離れたものである。教育をとおして人間回復を目指さなくてはならない、このような時に、臨教審は人間喪失・文体喪失の時代に適応する教育をめざしているのではないか。──このような報告・討議に即応する形で、熊谷先生の方から、去る4月23日付朝日新聞夕刊に掲載された、山崎正和氏の時評が紹介された。それを、今ここで詳細に正確にまとめられないが、「レトリック人間を存在そのままの形でとらえるのに、文学はどうすればいいか。」こういうことがテーマの一つになっているらしい。(私はその記事のあることを知っていながら読まなかったのです。)山崎氏の言っていることは、単に体制内発言でしかなく、そこには階級意識のカケラもない。そして中流意識をもつ家庭層への奉仕の文学をめざそうとしているものであり、その意味では臨教審の発想と重なり合うものを感じる。──熊谷先生の問題提起を私は以上のようにまとめてみました。〈文責 S.〉


1985/6/8 287

戦後の井伏と太宰−5月第二例会報告−(まとめ H.M.)
 〈K.K.報告〉 @ 「今、あなたの耳にトカトントンが聞こえていますか。」という問い(春合宿、熊谷先生)に接したとき自分の外側でなっている警鐘が聞こえているかどうか、という問いとして傍観者的に受け止め、一生懸命耳ばかりすましてみた。けれど、トカトントンの音は、情熱を傾けて行動している時にこそ聞こえてくるものだ、と今は思う。自分の理想に向かって、自分の分担課題を見極めて、心を尽して実践しているかどうか。自分の内側・外側に向かって変革する立場に立っているのかどうか。そういう厳しい問いとして、今は受けとめている。

 A 山崎正和氏の評論(4/23付朝日夕刊)に見られるように、現代は情熱を傾けることをダサイ ことと見なす傾向が強いが、それとは対照的に自己の内側から発せられるものの実行を、苛酷なまでに作家としての自分に課したのが、戦後の太宰文学の出発点だったろう。それは、他者の中に隣人を発見し、それと連帯しようとする姿勢が貫かれている。『男女同権』の場合、老詩人の虚構精神を通して、読者には闘うべき相手が見えてくる。『トカトントン』には自己の内側から出てくるものに熱中しようとする青年が登場してくるが、彼が感じているものは、今ふうのシラケとは違う。そして読者の視座には、やはり真に闘うべき他者を見据えた作者の姿が見えてくる。

 B ところで、こういう目でみると、『トカトントン』の最後にある某作家の「返答」は自暴自棄的な印象が強い。連帯の方向にではなく、自己否定というかたちで自分の中にだけ目を向けているように思える。こういう方向に押し進めていったのが『人間失格』であろう。『トカトントン』はそういう意味で『人間失格』の方向へすべっていくものを内包している作品、戦後の太宰文学における分岐点に立っている作品と言えるのではないか。

 〈Y.A.報告〉 @ 戦中・戦後の井伏と太宰の著作年表を作ってみると、“選手交替”ということが改めて実感される。又『多甚古村』における形象的思索を通して、“銃後も戦場だった”という押えができ、それが戦後の井伏文学を規定していることもはっきりする。

 A 井伏と太宰の間には、共通点が認められるとともに個性の違いも感じられる。例えば太宰はは『津軽』の末尾で、小説の常識をはずれてまでも、ギリギリつきつめた“諸君”への心尽くしを示しているが、それほどまでして“待った”太宰が戦後の現実を前にして「待っていたのはあなたじゃない」と言い切り、小説だけでなく随想でも闘いを挑んだ。捨て身のたたかいとも言うべき『如是我聞』には、戦後における太宰の文学姿勢が集約されている。一方、井伏には、作品の数からみても、あるゆとりが感じられるが、彼は戦争の現実を捉えて放さず、目の前のことにたじろがず、追求し続けけている。『橋本屋』『山峡風誌』『復員者の噂』の三部作では、戦場と銃後が庶民の生活の中に統一的に捉えられている。

 B (K.K.報告にふれて)太宰の自殺を太宰文学の必然と捉えていいのだろうか。太宰文学の主脈は『人間失格』にではなく、『如是我聞』の方にある。『トカトントン』は戦後の現実をとらえた健康な、すばらしい作品ではないのか。

(本号は当日の報告部分を紹介しました。次号は討論の様子を載せます。)



1985/6/8 288

戦後の井伏と太宰−5月第二例会報告〈討論編〉−(まとめ H.M.)
〈某作家の「返答」をめぐって〉
 討論はK.K.報告のBを中心に展開された。「作中人物の作家と太宰とを同一視しているのかどうか?」「聖書の一節をどう読んだのか?」(A氏) 「某作家と太宰とは別だ。まだ気取っている。格好つけている。それをやめた方がいい、落ちるところまで落ちろ。そう某作家は書いていると思う。」(K.K.氏) 「身と魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ、とあるが、そんなこと可能なのか。階級社会においては、トカトントンの音は消えない、これからも続くのではないか、という問題提起として読んだ。」(N氏) 「青年の自己凝視には、中途半端でない厳しさを感じる。某作家の言葉が作品の結論にはならないだろう。」(A氏)

 休憩後、熊谷先生から、概略次のような話があった。──「気取った苦悩ですね。」という部分を読んで、敬愛する太宰への怒りを感じた。なくもがな、と思った。某作家の返答の部分は、文学的必然性のある文章とは思えない。郵便局員の手紙だけで終わっていた方がよいと思う。そう読むのは読者の権利ではないか。今まで、この部分はないことにして、『トカトントン』論を書いてきた。そういうやり方が“現代史としての文学史”だと思っている。客観主義ではない。再構成だ。本来、自分が生きる手段として文学がある。ごまかさずに本音を出し合おう。──

 そして発言が続く。「読者が対比して考えられるように書かれていると思ったので、最後の部分をいらないとは思わなかった。太宰への尊敬というか、何となくそんな気持があったものだから、意味のあるものとして読んでいた。」(A氏) 「気取った苦悩、と読者は思ったのだろうか。私は思わない。太宰は気取った苦悩とは読めないように、青年の苦悩を書いていると思う。」「某作家の論理で貫けばニヒリズムになってしまう。そんなことで自殺に言及してしまったのだが──。」(K.K.氏) 「青年が信頼している作家ということから、その返事に意味があるのでは、と考えていた(I氏) 「聖書の一節は励ましともとっていた。」(Y氏) 「以前、作家自身がニヒリズムに陥っていないかと、熊谷先生からアドバイスを受けたことがある。それまで、最後の部分を切り捨てて読むことができなかった。やはり、青年の手紙の内容に匹敵するだけの末尾になっていないと思う。」(Y.A氏)

 これらの発言を受けて、熊谷先生から更に次のような指摘があった。
 @ 某作家の返答の部分は切った方がいい、というのが読者としての実感だ。ただ、好意的に考えればの話だが、青年の苦悩とは別の、こういうもっともらしい(気取った、気障な、インテリ・哲人ふうの)考えもある、という出し方として──そういう受けとめ方もある。

 A 津島修治の自殺──自殺と断定していいかどうかも問題だが、そのことと太宰の作品とを結びつけるのは恐い。生きたことも、死んだことも、それはある面では偶然の出来事だと言ってもいい。そういうことを作品に関連させるのは、客観性の剥奪であり、、又、文学史への冒涜である。──

 太宰治を敬愛することと、神聖視することとは別のことであること、読者の実感を大切にすることが“現代史としての文学史”の基本であること、等々、学ぶことの多い例会であった。


1985/6/22 268,269

6月第一例会
〈まとめ Y.H.〉
※例会第1部は熊谷先生の構成になる「太宰治語録」(機関誌132号)の検討。第2部は’84年冬合宿の討論記録「文芸認識論の諸問題」(同誌)を自己の内に再整理するかたちで学び直しました。豊富な例会内容、それを忠実にまとめようと思いましたが、私の関心のむかったところ、それも一点にしぼりました。お許し下さい。(Y)

「語録」16章──〈私にとって小説であるもの〉を中心に。
 〈私は小説というものを思いちがいしているのかも知れない。よいしょ、と小さい声で言ってみて路のまんなかの水たまりを飛び越す。水たまりには秋の青空が写って、白い雲がゆるやかに流れている。水たまり、きれいだなあと思う。ほっと重荷がおりて、笑いたくなり、この小さな水たまりが在るうちは、私の芸術も拠りどころがある。この水たまりを忘れずに置こう。〉(『鴎』/「知性」/1940.1/30歳)

 ぼくの新潮文庫、『鴎』のところを開いてみる。あちこち赤鉛筆で線が引いてある。ことばとして感動したから引いたものやら、なにやら、あてにならない傍線であるのだが、ここにも引いてある。そして〈千代紙ハリマゼ〉とメモしてある。
 してみると、これは、少なくとも機関誌86号の「語録」をはじめ、熊谷先生と文教研の人たちのこれまでの太宰研究に導かれて、ぼくなりに、ここ太宰の文学観をみるおもいで、眼をとめたのだろうと想像できる。
 しかし、何事もそうなのだが、それっきりなのである。思いをめぐらすことがない。ただ、それでも──この小さな水たまり、必要としない人にとっては、なんの意味もない。そこに存在するのだが無縁なのだ。いや、人によっては、水たまり、邪魔なのだ。が、ある人にとって、それは救いであり、潤いである。必要なのだ。文学とはそうしたものであり、これが太宰の文学観の一つなのであろう、ということを、共感しながら感じていたように思う。

 ところで、今回、熊谷先生がこれを取り上げられた意図を聞いたとき、正直、うーんとうなってしまった。
 だいいち、それまでぼくは、水たまり=芸術(文学)という重なり合ったイメージで読んでいた。したがって、17章(芸術=すみれの花)や18章(芸術=走ラヌ名馬)の前に、この16章が据えられた意味に、質的なちがいを読みとってはいなかったわけである。
 ただ、この情感のしみとおるような形象性において、太宰の芸術観をふくよかにつかみ直すためのものかと考えていたのである。芥川の『大導寺信輔の半生』の冒頭部分、〈本所の町々はたとひ自然には乏しかったにせよ、花をつけた屋根の草や水たまりに映った春の雲に何かいぢらしい美しさを示した。彼はそれ等の美しさの為にいつしか自然を愛し出した。〉云々につながる抒情を感じながら。

 ところが、その点について、熊谷先生は──「これまでの語録には、芸術をすみれの花(17章)とし、走ラヌ名馬(18章)とする、太宰がきわめて一般化したことばを取材してきた。」「これも、“走る馬”をめざしたプロレタリア文学──文章は決して走らない。この走らないのが、いい意味での文学の限界であり任務なのではないか。走らないが、しかし名馬でなければならない。駄馬では困る。現実の馬が持ちえないようなものをもっているような名馬、それが文学なのだ。プロレタリア文学は、その限界と、名馬の意義を認識しえなかった。──そのプロレタリア文学に比べれば、すぐれた認識であるが、この16章は17,18章にない具象性をもっているし、ずっと象徴的である。感覚的でありながら、文芸認識論と少しも矛盾しない論理性をもっている。」「この媒体である水に映る青空と白い雲を見て感動するところに成立する、これはまさに第二信号系の理論そのものだ。」「17,18章は一般化されているそれが、ここでは、すぐれて形象的につかまれた文芸認識論になっているのだ。16章を今回の『語録』に取り入れた意味はそこにある。」

 以上が、熊谷先生の指摘である。第二信号系の理論をそこに重ねてみると、“水たまり”は媒体である。ドラエモン・ポケット
[一つの大きなポケットで、必要なものはいつでもすぐにそこから取り出せる]を持たないぼくは、こういう時、いつも自分にがっかりする。

 しかし、「うつむいて歩いていて、空が眼に入らない。が、その媒体に映った空と雲を見て、思わず感動する……」という先生のおはなしから、俯き歩くその人物の心の内側まで感じられ、しかも、文学現象は受け手の主体的な働きかけなしには実現しない、というテーゼが浮かび上がってきて、例会第2部でとりあげる「文学的現実と文体」の問題が、ここで今、具体的に確認されているのだな、と理解されてきたとき、少なくないよろこびを感じた。

 たしかに、この16章は“実人生の脈拍に触れる”ような、ことばの芸をつくした芸術論になっている。
 その点でも先生は、「この“人生の脈拍”云々は、芥川のことばだが、そのくせ芥川本人の芸術論は、太宰のように“人生の脈拍に触れる”言い方はしない。むしろ論理的に整理される。太宰はその点、未整理だ。しかしそれ故に可能性もふくんでいるといえよう。“よいしょ、と小さな声で言ってみて……”なんていうところ、下手をすると失敗するが、ここでは、ほんとうにピタッとしたものにしている。必要なムダなのである。太宰文学のたのしさの極致、生涯かわらぬもののひとつであろう。」と深められる。

 法則性に関する真実を求め、オーディアス・トゥルース
(芥川)であれ何であれ、それをさぐっていくという科学の姿勢とは違う、心づくしの文体(文学的現実)を、この「よいしょ……」に感じるのである。
 文学の対象は現実である。しかも、そこでは、どういう現実をつくっていくことが人間的な営為であるかを、人生の脈拍に触れるかたち、生活感情につながるかたちで、求めているものが、ここに見えてくる。

 「ところで、“水たまり”は媒体であるが、その媒体自体が美しいということと、ことばが消えるところに文学が生まれるということとは、少しも矛盾しない。“水たまり”(媒体)があって美しいのだ。しあもまた、“太陽がほしい”
(芥川)という切実な願いは、“太陽がほしい”ということばでしか実現できないのと同様、“水たまり”ということば自体がたまらなく美しいのである。」という先生の指摘も、大切に押さえておきたい。

 この稿を終えるにあたって、次のことは触れておきたい。
 太宰の文学的イデオロギーを押さえるとは言っても、それは推移したり、曲折をみせたり、拡がりを帯びたりと、動きつづけたものである。そのさまざまの文学的動態の中から、「これを除いたら、太宰でなくなってしまう。」といったところを、選びぬいたのが、この『太宰治語録』なのである。
 したがって、そこには、〈太宰文学の生涯を貫いている“すらだにも”精神〉や〈民衆文学としての視点・視野の獲得をみせた1939年から40年段階へかけてのエポック〉という学説を裏づける太宰のことばが配列されている。

 例会の内容すべてに触れられなかったことを、お詫びしたい。(Y)


1985/8/1 291

6月第二例会 報告・討議メモ 〈シンポジウム〉日中戦争下の井伏と太宰
 まとめ M.T.
−提案 N.T.−
 1930年5月、井伏(32歳)と太宰(20歳)の出会い。『さざなみ戦記』を書くことを通して、戦争の現実を文学的現実に、じっくり形象的思索において捉え得た井伏であったが、日中戦争の「ぬかるみ」の現実が文学的現実を追い越しはじめたことのあせりが『さざなみ軍記』の終結を急がせ、直接現在の戦争状況に眼を向けた『多甚古村』の執筆を促す。みることを避けようとしたもの、いままで見えなかったものを文学的現実としてえぐり出していく。

 井伏文体の確立期は太宰文学にとってもエポックであった。いまは「遺書」としてではなく、生きて行くために書こうとした〈希望を持とうとする人の書いた文学〉の時期の太宰は戦争の現実に肉迫する井伏の文学精神とその気迫に、たえず刺激をうけ、自己の創作活動に情熱を燃やしつづけて行った。〈『めくら草紙』『富獄百景』『女生徒』『畜犬談』……にふれて)

 井伏・太宰二人の日中戦争下の作家の姿勢の共軛点は、広汎な民族文学としての視点・視野の獲得である。戦争の現実を文学的現実として捉えたこと、焦点がそこにある、と提案された。

 シンポジウムの意見者であるS.F.、S.H.、Y.H.の三人の方々から、『鴎』『春の盗賊』『富獄百景』にしぼって、N.T.提案をうけての発言があった。
 『春の盗賊』──太宰から見た「銃後意識」を作品を通して、みていきたい。(S.H.)
 井伏と太宰の共軛性を『鴎』『富獄百景』『多甚古村』に触れながら、文学的イデオロギーの面から探ってみたい。(S.H.)
 39年から40年の太宰のエポック、井伏から太宰への選手交替、どういうところにあるのか、あたり をつけていきたい。『富獄百景』『の太宰の民衆的視野の獲得を核にしてみたい。(Y.H.)

 休憩後の討論の中で、次の点が確認された。「自己の経験もせぬ生活感情……書けない」(『鴎』) 階級感情ぬきの生活感情はない。『新郎』などを見ると、『晩年』の世界のあるみずみずしいものがなくなっている。何かを失って(意識して捨てて)何かをつかまえる。新しい段階でのみずみずしさの回復、実現は『右大臣実朝』まで暖め、発酵させる期間が必要だった。
 『へんろう宿』にみられる井伏文学の豊潤なもの(「隠し味」)は太宰にはない。「一途なもの」これが太宰文体の特徴。
 共通性──教養的中流下層階級者の視点、異端の系譜。


1985/8/3 292

7月第例会
〈まとめ I.M.〉

 7月例会は、全国集会へむけて、シンポジウム『右大臣実朝』の検討がおこなわれた。その後準備合宿においてさらに検討がくわえられ、現在にいたっている。
 提案者にしても、意見者にしても集会当日まで、発表内容の絶えざる組みなおしが必要であるわけだが、ここでは、今までの検討をふまえて、あきらかになってきた点を、メモ風にまとめておきたい。

 まず重要なのは、この作品が、『金槐和歌集』の中に息づいている「実朝」の人間(単に行動する実朝ではなく、行為し実践する実朝)を、散文文学的現実への移調において、つかみ直して描いているという点の確認である。
 『右大臣実朝』に位置づけられた歌は、「実朝の人間そのものを、また、その人間的成長を内面から語るものとして、いわば小説的虚構のマチ針として位置づいている」わけだが、わかっているつもりで、私の場合、この点の押えが弱かったと思う。とくに、「内面から語る」ということの意味をよく考えていなかったように思う。
 そのことに関連するが、実朝の歌をとおしてアピアしてくる、実朝の「現実」こそが、太平洋戦争下を生きる太宰文学本来の読者(の世代)にとっての戦争の現実(文学的現実)なのだ、という点のおさえも弱かった。

 外側の環境条件から、どう影響されたかというような視点や、また、それをどう再現しているか、などという視点では、太宰文学はとうていとらえられない、ということが、改めて確認できた。
 実朝にとっての「現実」ということは、実朝の、人間として面白味のある、そのメンタリティーと切りはなして考えることはできない。作品の展開自体が、そのような人間としての、実朝の自己成長の過程をものがたっている。
 この作品の示している、こうしたダイナミズムの把握に関しても、私の中に弱さがあった。部分主義の陥っていたのである。

 今、ふりかえって考えてみると、これらの指摘は、『太宰治』(熊谷孝氏著)において、すでに、基本的には行なわれていたものであった。読んでいるつもりで、じつは読めていなかったわけである。再度、読み直し、太宰文学の最高の達成点であるこの作品の意義について、考えていきたいと思う。


1985/10/12 294

9月例会(28日) 『葉』を中心に『晩年』の世界を 
〈まとめ K.K.〉
−提案 T.M.−

1.『晩年』に於いて、『葉』以前と以後と
 過去に於いては『晩年』という作品をのっぺらぼうに、ひとまとめにとらえていた。今は、『列車』『魚服記』そして『葉』という流れの中で、『葉』が一つのエポックであると考える。

2.『葉』の世界
 「葉の裏だけがじりじり枯れて…(中略)…散るまで青いふりをする。……」主情・苦悩を前面に出さず、自己凝視を続ける姿勢で貫かれている。自己凝視とは、自分の内なる読者との対話である。その内なる一番の読者は、太宰その人であった。内なる読者の想いをある整理した形で、(それは典型として、ということであるが。)又、読者に返していく。そういう対話精神に満ちた作品である。ただ『葉』の中のいくつかは、ふり をしきれていないものもある。自分につきすぎているのである。それは、例えば「哀蚊」。これは、習作期の作品を再構成しているが、やはり『葉』に流れている一貫した発想を追う時、あそこに入れるのは適切とは思えない。

 『葉』は“点と線”で言うなら、小説としての“線”、点ではない過去を背負い未来を展望している、新しい形の小説ではないか。
 単なる体験主義ではないが、ある想い、それはそのような感情がなければわからない。「死のうと思っていた」この言葉に、ただ傍観者である人は、作品『葉』とは無縁の人である。共有する生活感情、そのことは、階級意識と関わりがあるわけだが、その意識がなければわからない作品である。「死のうと想っていた」そういうひとが、“ことば”に賭け、読者との対話を必死の思いで交わそうとしている、『葉』はそのような
作品である。

 「芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。」──(生活と遊離した芸術への批判)
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 「われは山賊。うぬが誇りをかすめとらむ。」
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 「留置場で五、六日過して…(中略)…俺はその風景を眺め、巡査ひとりひとりの家について考えた。(人間一人ひとり、それぞれの生活をみつめる、孤独に耐える性情、ここに階級的視点がはっきり打ち出されている。)
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 「役者になりたい。」
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 「花売り娘」のコント──(そこに自分も含めて、必死に相手を励ましていくその視点、待つことにつながっていく、心づくしがそこに息づいている。芥川の『日光小品』の、「温かき心で現実を見よう」からのつながりを思う。)
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 「春ちかきや?」

〔次号には、このT.M.提案に対する意見者の発言をとりあげます。〕


1985/10/12 295

9月例会(28日) 『葉』を中心に『晩年』の世界を(つづき) 
〈まとめ K.K.〉
−意見者・一番手 K.S.−

 『葉』は太宰世代の苦悩(〈怒濤の葉っぱ〉〈暗い谷間〉の世代につながっていくものとしての苦悩)を凝視している。そんな作品であるという提案があった。賛成です。──平和の幻想・中流意識の幻想にとらわれている者にとっては、この『葉』は必要のない作品である。──と、以前、熊谷先生の話がありましたが本当にそう思います。『葉』から投げかけられている問題が、現代の自分の問題として、つながる者にだけわかる作品だからと思います。
 冒頭のヴェルレーヌの詩の意味がわからなければ、この作品は本当に見えてこない。二十世紀旗手としての誇りを失うまい、そういう生き方を求めつつ抱く不安、ここから考えていくと、この作品の世界がズーッとつながってきます。
 「新宿の歩道の上で点」「芸術の美は所詮点」「花きちがいの大工……」「じりじり枯れて……」「春ちかきや?」 「どうにかなる。」こう見てくると、希望を失った人の書いた小説と言っていいと思う。『列車』『魚服記』、こういう作品と『葉』は違うと思います。希望を持とうとしているという点で、提案に賛成です。

−意見者・二番手 M.T.−
 点と線という話が出たが、今までこの作品を散文精神の所産としては、とらえていなかった。わかるところだけ、自分の感覚で断章としてばらばらに受けとっていた。今は勿論、連続した世界として見えるのだが、詩の世界として、ある程度の独立性もあるのではないだろうか。

−意見者・三番手 H.M.−
 一般に言われている断章ではなく、新しい形式の小説だと思う。「竜」とおぼしき人物、悪現実の中で苦悩している人の想い、その苦闘が線として描かれている。『列車』は『魚服記』からの展開として『葉』をとらえる時、この作品を太宰文学の原点としておさえるのは、なぜか。階級的視点という問題なのか、又、芥川の教養的中流下層階級者の視点の確立 した作品ととらえるのかどうか。さらに『葉』以後の作品として、どのようなものをおさえていくということになるのか。
 確かに『列車』の「私」は精一杯の心づくしが妻やテツさんに通じない絶望感を抱いている。だが『葉』でも光は見いだしていないのではないか。

−討論−
1.『葉』は断章なのかどうか
 『葉』は点なのか、線なのかという話題から、点線論争でなく、まず文学であるのかどうか、文学であるなら、それはどのような文学なのか、作品に即して考えてみようということになった。内なる読者を含み込みながら、「どうにかなる」にたどりついている、その間を事柄的つながりで読もうとしたらわからなくなってしまう作品ではないだろうか。筋を拒絶している作品、トータルに於いて新しい小説の世界が実現している。いわゆる自然主義風の主人公概念などでは読めない作品である。断章のような形をとっているので、前後の非連続があるように見えるが、それより大きく一本とおっているものがある。それは発想の一貫性ということである。散文としての虚構精神でつらぬかれている。

2.教養的中流下層階級者の視点の問題
 確かに嘆きで終わってはいるが、『列車』の中の「私」の汐田のとらえ方などには、「信輔」の友人に犬歯を見る視点と同じものを感ずるし、具体的形象として抑圧するものは出てはいないが、そこに追い込んでいったものへの怒りは感じられる。民衆的視点に立っていると言えるだろう。「──視点の確立」というより、『葉』では成立 と考えるべきではないか。
 『列車』『魚服記』は嘆きである。(勿論その質は問題にしなければならない。)そこから一歩でたものとして、『葉』があるのではないか。
 絶望のとなりにいて、「どうにかなる」と明日にかけていく、そのような姿勢を支えているのは教養的中流下層階級者の視点がそこにあるからではないのか。従って、『葉』によってこの「視点」の成立をみると言えよう。


1985/10/19 296

10月第一例会報告 『葉』から『右大臣実朝』へ 
〈S氏のノートより〉
※本号は当日の熊谷先生の発言を主にまとめたものである。
文学としての『右大臣実朝』
 その文体的発想をつかむためには『葉』からたどって、太宰文学の全体像に立った時、太宰文学の達成点としての『右大臣実朝』が見えてくる。

『右大臣実朝』の原像
 ◎井伏『さざなみ軍記』──その公達のある意識を異端の系譜としてとらえ得た。(『正義と微笑』をワン・ステップとして)
 ◎『金槐和歌集』──文学的現実としての〈詩的現実〉(『金槐和歌集』)を〈散文文学的現実〉(『右大臣実朝』)にとらえ直した。

リアリズム文学としての『右大臣実朝』
 形象的思索の中でさぐり当てたその人間観(人間みな同じものではない。)その意味で抵抗文学になり得ている。
 ──くず折れていく実朝から眼を話さないで、見続けている。

『右大臣実朝』の対象点 の取り方の意味
 
世代形成期        
    |
 どういう持続性を、深まりを、一貫性を
、持ち続けたか、これが問題である。

太宰『正義と微笑』
井伏『さざなみ軍記』

成人期
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 『右大臣実朝』の場合──ただ単に、その対象点をそこに定めたかどうかということではなく、その枠を取り払いトータルにおいて、統一において、その対象点を求めた所に、『右大臣──』のみごとさがある。
 その意味で、これが太宰文学の達成点であり、太宰が芥川や井伏を越えたと言えるのではないか。それを確認する上で、以上の事は重要な観点である。


1985/12/14 297

『太宰文学手帖』出版記念集会 略報

 去る十一月二十三日、渋谷の勤労福祉会館で開かれた記念集会は、百余名の参加者を得て盛会の内に終わりました。
 冒頭、福田委員長の「生き方を探るために太宰文学を読むのだ」という挨拶を初めに、午前中は荒川有史、夏目武子両氏による講演が行われました。

 〈現代史としての文学史〉の視点(荒川)──太宰文学をとおすことによって、近代文学史の視点がはっきりしてくる。その太宰は死んでからでも対話を続けたいと願ったほど鴎外を尊敬していた作家であった。鴎外、芥川そして井伏と、これらの作家の文学精神を継承した太宰、だからこそ日本近代文学史の解明に太宰文学は欠かすことのできない存在である。鴎外の娘・小堀杏奴は世の多くの作家が「安全地帯」で作品を書いているのに反して、太宰は自己の主体を賭けて、根源に迫っている、と評している。

 太宰文学と文学教育(夏目)──同じ太宰といっても、『右大臣実朝』の太宰か、『斜陽』の太宰かでは違ってくる。自分にとっての何が太宰文学なのか、はっきりつかんでおきたい。『走れメロス』は中学の教科書に取りあげられているが、これをもって「太宰文学ナリ」ととられては困る。この作品は太宰文学の中でも『斜陽』−『人間失格』につながっていく作品である。「十二月八日」「八月十五日」これらのいずれにも便乗しなかった、できなかった太宰の強靱な精神、このあたりをはっきりおさえておきたいものである。

 午後はチューターの熊谷先生を中心に提案者の佐藤さん、意見者の高田、金井、山下各氏によるシンポジウムが行われました。(「なぜ、今、太宰文学か」

 中流意識の幻想性打破の仕事を太宰文学で! 階級を問うことなしに自分を問うことはできない、といった芥川。「プチブル」を往々にして世間では蔑称として使うが、そのプチブルの視点を素通りして、果たしてプロレタリアの視点に立つことができるか。“怒濤の葉っぱの世代”に道筋を与えてくれたのが芥川文学である。その芥川の「教養的中流下層階級者の視点」を発展的に受け継いだ者、それが太宰である。──

 シンポジウムは『右大臣実朝』を中心に行われました。当日、出された意見・討論、その成果は、いずれ何らかの形で整理され、報告されることと思います。〈M.M.ノートより〉


1985/12/26 298

12月例会報告 
 まとめ H.M.
★ 今後の研究計画について
★ 『太宰文学手帖』検討

〔A〕 岩上順一『歴史文学論』のことなど

 冬季合宿研究会、および第U期研究プランが拡大常任委員会より提案され、了承された。その中に、「次の全国集会後、岩上順一の『歴史文学論』の方法意識にならって文教研の歴史文学の研究をとらえ直す作業に入る。」という一項があり、熊谷先生とTさんから、概略次のような説明があった。

 岩上順一氏はすぐれた文芸評論家であり、唯物論者である。氏の仕事は、にせ物の歴史(皇国の歴史)を教えられ、にせ物の歴史文学が氾濫する状況の中でなされたものである。氏は真の歴史文学として、鴎外や芥川の歴史文学を検討し、鴎外のそれこそ最も優れたものだとの評価を示した。その方法意識には学ぶべきものが少なくない。だが、氏は文学を文学としてみておらず、その論にはイデオロギー主義が濃厚である。

 今日ほど歴史が問われ、歴史文学が必要とされている時はない。1980年代を生きる私たちもまた歴史文学について、まっとうに考え直してみる必要があるのではないか。『コシャマイン記』を検討したのはすでに十年以上前のことだ。文教研の今までの財産をふまえながら、来年九月以降、継続的に取りくみ、次々年の第36回の全国集会では歴史文学をテーマに設定したい。そういう視点から次の第35回集会には『右大臣実朝』が位置づくことになろう。

〔B〕 「文学的現実」と「文体」に
  11月例会では熊谷先生から「文学的イデオロギー」と「リズム感覚」(ラザモンド・ハーディング“Anatomy of inspiration”)との関係について、おはなしを伺ったが、今回は「文学的現実」と「文体」についての“タネ明かし”かあった。熊谷理論形成史秘話といった感じで、大変興味深かった。だが私には正直なところ十分には消化できていない。私自身の整理のためにも、以下その骨子をまとめてみる。

 @ 芥川の「内容・形式論」は文芸認識史上優れた物だが、「内容」「形式」という言葉(概念)を使っている限り、二元論を断ち切ることはできない。そこで「文学的現実」と「文体」という言葉によって、一元的に捉えようとしたのである。

 A ところで、こうした考えは、Gestalt心理学に学んだものである。このたび出版した『太宰文学手帖』の序文の中に明らかにしておいた、プラグマティストであるデューイに学んだように、である。このランガーそしてデューイの「意識」とは別に、そこに芸術科学としてのすばらしさを認めて、批判的に摂取したわけである。誰が言おうと、正しいことは正しい。[この項、後日の訂正において削除。「文教研ニュース316号参照]

 B Gestalt(形態)とは、もともと哲学の言葉で、19世紀にベルリン大学哲学科の学者が「形態質」という概念を提出したのが起源である。それがヴェルトハイマーらによって、、人間の心理現象へのアプローチに導入された。全体心理学とか形態心理学とか呼ばれるこの心理学は、一定の心理現象を「要素」の結合によって説明しようとする「要素心理学」に対するアンチテーゼとして提唱された。[要素心理学では]つまり、全体としての人間の心理現象が、ある時間・空間(=場)においてある姿をあらわす。それが部分だ、とするのである。これは有機体としての全体・部分という考え方であり、有機体説であり、弁証法を認めない観念論である。
 この心理学は垣内松三の理論や当時の東京文理科大学の教授たちによって導入され、解釈学−読解主義−の理論的な拠りどころとされた。

 C マルキストたちの芸術論は、「大前提」は正しいが「前提」がしっかりしていない。「前提」をとび越えて、「大前提」から芸術現象を説明しようとした。所謂、反映論に拠りながら、つなぎは読解、というものであった。そして、それが唯物論であると目されていた。それに比べ、ランガーもデューイも「大前提」には目が向いてはいなかったが、「前提」は緻密であった。芸術現象の前提、その前提と芸術現象との直接的な関係について、よくおさえている。そこで、それに学ぼうとしたわけである。

 D 私たちが学んだのはアメリカ渡りの形態心理学における「figure/ground」という考え方である。これはナチの圧政から逃れて渡米したゲシュタルト心理学者たちが提出した概念である。それがアメリカに根をおろし、発展したものである。「figure」とは「図柄」、「ground」は「地づら」と訳されて日中戦争下の日本に受けいれられた。この考えを唯物論的なものに結びつけて、唯物論者たちの中間項抜きの芸術論を補おうとしたのである。

 E どういう地づらに対して、どういう図柄が鮮明か、は相対的なものだ。figureとgroundを一元的に捉えているこの考えを芸術現象の解明に応用したのが「文学的現実」と「文体」という概念に他ならない。「文学的現実」と「文体」は紙の表と裏の関係にあるもの(表裏一体のもの)なのである。

〔C〕 質疑・討論の中から−アト・ランダムに
 ・大前提を持たないGestalt心理学はナチに利用された。そこでは「全体」は国家=ゲルマン民族とされた。垣内も全体からスタートし皇国史観による民族語把握を行なった。(熊谷)
 ・Gestalt心理学の批判的摂取として総合読みの方法があることも確認できた。また部分と全体の弁証法というのも同じことだとわかった。(T.K.)
 ・大前提と直接前提という概念のすばらしさを感じた。(A.Y.)
 ・「文学的イデオロギー」ということを高邁に考えすぎる傾向があるが、これにもピンからキリまである。またプシコ・イデオロギー一般より高次なものとして文学的イデオロギーがあるのでもない。それはプシコ・イデオロギーが内具 している言語形象的認識機能 に他ならない。(熊谷)
 ・『太宰文学手帖』の原稿の中に「文学的イデオロギーが横溢している」という言い方があって、熊谷先生がそれをおかしいと指摘された意味がわかった。(T.M.)
 ・『──手帖』のp.14のプロ文学の規定については「実践主体として自分を考えることを抜きにして」というフレーズを入れたかった。科学も実践にはちがいないのだが、そこには実践のための手段と、という面がある。文学は書く人にとっても、読む人にとっても実践そのものである。
 その意味で、文学は特殊なものである。科学と握手する必要はあるが──。(熊谷)

 ※補注 上記T.M.発言に引用されている原稿の書き手は私です。『──手帖』では「文学精神」と改めていただいてあります。記して謝意を。(H.M.)


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