むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1976        *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1976/2/21 113

わたしの総括〈井伏鱒二『さざなみ軍記』〉
I.M
 1月14日の例会は、『さざなみ軍記』の“9月24日”から“2月3日”までの部分をあつかった。私は、そこで報告を担当したが、例会の討議への参加によって、この作品のすばらしさを、さらに深く実感することができた。それはどんな点についてか、以下にまとめてみたい。
 まず、〈私〉像に関して。“9月24日”の部分に〈私〉があの「梨の木の下の少女」を回想する場面が描かれている。ここで、過去を回想する〈私〉が情勢の悪化の中で、それにおしながされて生きている〈私〉ではなく、デリケートな神経を失うことなく、しかも、自己の精神をたえず強靱なものへと、きたえていく、そのような〈私〉である。例会の討議は、わたしに〈私〉の回想が単なる過去へのノスタルジアや逃避ではなく、現在をより誠実に、より人間的に生きようとするための過去のつかみなおし以外ではないことを、はっきりと、実感させてくれた。底には、成長しつづける若い魂の姿がある。そして、そのような姿勢において、過去をみつめたからこそ、少女の自分への「何ものにも換えがたい心盡し」の姿勢が深く強い感動をもって、〈私〉の中によみがえってきたのである。
 〈私〉のこうした真剣な少女への想いは、また「私は和歌など朗詠しなかった」という〈私〉の言葉をつうじて、わたしたちに強くせまってくる。自分にとって、かけがえのない存在がうばわれたことへの〈私〉の怒りと悲しみが、「和歌など」という表現をとおして、わたしたちに深くひびいてくるのだ。例会の討議によって、わたしは井伏のこのような一字一字をゆるがせにしないきびしさに改めてきづかされた。
 例会の討議でとくに印象的だった二つめの点は、〈覚丹〉像に関するものであった。以前わたしは〈覚丹〉について、そのあたたかさや、強靱な喜劇精神に強くひかれるものを感じていた。だが、そうしたものを獲得しえた〈覚丹〉の根本の姿勢、また、〈私〉と〈覚丹〉との生き方の根本的なつながりは何であるのか、という点については十分に理解していなかった。だが、今度の例会で、脱変態階級の道をえらびとった〈覚丹〉、という指摘にふれることで、その点がはっきりしてきたように思う。自己の身の保身だけを考えて、変態階級として生きのこる道――〈覚丹〉はだが、その道をえらぼうとはしなかった。〈覚丹〉はあえて滅亡の道をえらびとったのである。そう生きることが誠実であり、人間的であるがゆえに、彼はその道をえらんだのである。また、そこに、〈私〉と〈覚丹〉との深いつながりがあるのだ。さらに例会ではこの〈覚丹〉に真に共感できる読者は、自己の日常生活において、変態階級的生き方を否定して生きようとする読者であることが指摘された。
 日中戦争下の現実の中に生きるこの作品本来の読者、その視座を現在のわたしたちに媒介する場合、それは何ら傍観者的なものではなく、わたしたち自身の生き方をするどく問うものであることを、したがって、また、文学がわたしたちのよりよき実践のためにこそあることを、この指摘は改めてわたしに気づかせてくれた。

児童文学グループは
 2月16日、『ドリトル先生アフリカゆき』の第二回めの研究会をもちました。次は2月28日に予定しています。都合のつく方はどうぞ――。 武蔵野公会堂 p.m.3:00


1976/5/22 116

鎌倉国語の会での熊谷先生の講演
H.S
 5月1日のメーデーの日に鎌倉国語の会主催で、熊谷先生の「文体づくりの国語教育」という題の講演が大船の勤労福祉会館で開かれました。当初、予想していたよりも多くの方の参加を得て、緊張した中にも、聴衆と先生との間に真のコミュニケーションの成立したなごやかな会でありました。その時の先生の講演を、ぼく自身の印象の追跡という視点から、(主観的な受取方を恐れながらも)まとめてみたいと思います。
 先生のお話の後半のところで、多くの文体論者の考えは“文は人なり”の発想に立っていると批判されました。それは同時に、現在流行している芥川論や太宰論のあり方をも批判されているように思いました。つまり、現行の文体論の目的の多くは、その文章を書いた人の性格やら個性やらを究極においてつかむことにあり、また、それらに同化することがその作品や文章を理解したことになるという、その追体験主義を鋭く批判されました。それらの文体論が性格学や心理学のテーマとしてならば、その方向で正当なのでありましょうが、少なくとも、文学に関する文体論としては成立しえない議論だと言われました。すなわち、文体論が現実把握の発想をぬきにした議論ならば、まったく問題にならないだろうし、又そういうあり方が、今日の作品論をゆがめたり、文学を真の教養とつながらない「骨董品として愛玩する」趣味人の世界のものに貶めてしまうことになってしまうのでありましょう。ぼく自身の文学の読み方を振り返ってみる時、精神分析学の本を横に置いて、作者の心理分析をやり、教室では登場人物の心理の説明をするという風な授業をやってきたことにいたく反省させられます。つまり、自己変革というすぐれて実践的な意味での文体づくりの国語教育がかけていたと言わざるを得ません。
 先生の提唱される文体づくりの国語教育とは、現実把握の発想を鍛えて行くことであり、ことばづくりの指導は、そのことと結びつかなければ国語教育の目的を果さないことになるのでありましょう。例えば、具体的な例として説明文は難しいから十分時間をかけてやり、文学はつけたしでいいという発想、果してそれでいいのでしょうか。ドメニコ・ラガナさんは説明文はやさしいと言っている。彼にとって難しいのはやさしい日本語であった。そのやさしい日本語をマスターするために、彼は日本の文学作品にアプローチしたわけである。つまり普遍的な日常語で書かれた文学作品が彼にとってはわかりにくかったわけである。今までの国語教育が文学教育的でありすぎたなどとはインチキである。その描写文体からイメージとしての形象を作り、その文章のありようから発想を探るという方法ではなくて、ただひたすら鑑賞上の盲人を作り出して来たのではあるまいか、といった熊谷先生の問いかけは、きわめて実践的な響をもって、厳しくぼくの胸にきこえて来ました。と同時に、終始、ユーモアを交えた先生のお話に楽しく充実したひとときを過ごさせてもらった満足感は、決してぼくだけのものではなかったと思います
 最後に、鎌倉国語の会という小さなサークルに対しての、先生をはじめとする文教研会員の皆さまの暖かいご援助に心から感謝いたします。


1976/9/25 118

新年度総会 9月11日(土)
 ご存知のとおり、文教研の新年度は9月ということになっています。第二土曜の11日、渋谷・勤労福祉会館で総会が開かれました。冒頭、福田委員長から、常任委員会の提案として、次の四つの問題が出されました。
@ 全員で例会をもりあげよう。
――例会時での発言がどうしても、かたよっているように思える。出席者は必ず、誰でも一度は発言するように努力しよう。
A 例会に“エルム主義”をとりもどそう。
           † どんな大きい辞書を開いても、このことばはでてきません。
――例会は、今、確かに形はととのってはきたが、お互いに考えを率直にぶつけ合う、そんな気風が欠けてはいやしないか。文教研の二十年の歴史の中で“英雄時代”に相当する、いわゆるエルム荘(荒川邸)を会場にしていた頃の激しい、しかもそれはお互いに信頼の上に立った例会を実現していこうではないか。
B すべての会員への配慮を重視しよう。
――例会だけじゃなくて、問題別、地域別、あるいは電話での話し合いなど、様々な形の研究会を組織して、各自が当面かかえている問題を積極的にとりあげていこうではないか。
C 最低一人は機関誌「文学と教育」の読者を広げよう。
――われわれの研究成果は決して“私有財産”ではないはずである。一人でも多く知ってもらうことは成果を大切なものだと考える者にとって、一つの義務である。できない事ではない。

以上の四点は全員で確認、承認されました。
(以上は、福田委員長の報告を、ニュース部Sが多少意訳した上でまとめたものです。)
 
第9回 大内寿恵麿リサイタル
10月27日 於 武蔵野公会堂

10月9日(土) 理論部会 於 渋谷
〈テーマ〉 文学現象が歴史社会的現象であることの意味
      提案―熊谷先生
〈テキスト〉坂口安吾『不良少年とキリスト』


1976/10/9 119

『山椒魚』の自然描写と倦怠
O.F
 『山椒魚』の魅力の一つに、自然描写の見事さがある。“リアリズム”に徹した文体というだけでは解け切れぬ、その秘密は“倦怠の目で自然を見る発想に貫かれた文体”にあることを、神教協へ向けての学習で学んだ。私には大きな驚きであり喜びであった。
 Nさんのお宅で、熊谷先生は提言された。
 「倦怠の色眼鏡をかけて読んでみたらどうだろうか。二章もですよ。」

「可憐な花は可憐な実を結び、それは隠花植物の種子散布の法則通り間もなく花粉を散らし始めた。」

 傍線部の固いことばが新鮮な調子を与えている。この部分は仮りになくとも、苔の描写はできている。隠花植物の法則――法則とは決定されたもの、変え得ないもの、非情なもの(神もその別名)といってよいものだ。杉苔や銭苔には、いつ花を咲かせ、どう花粉を散らすか、決める自由はない。谷川の流れ方も藻の生育の仕方も決定されてしまっている。山椒魚ならずとも嘲笑したくなるメダカの習性もいわば宿命だ。法則的必然とはなんと退屈であることか。四季の変化を愛でる自然観とは全く違った自然観がここにある。人生に抱いた深い倦怠の想いで自然を見つめた時、美しい自然は全く別の不自由な、法則に縛られた自然として映ってくる。人生を語ることと、自然を語ることとは別のことではなかった。倦怠につかまれた山椒魚は苔を眺めることを好まない。自己のいやな面を他の中に見たくないのだろう。
 苔、谷川の流れ、藻、目高、淀みの水面に吸い込まれる白い花弁と、法則に支配されるものの姿が、たたみかけるように描かれ、それをじっと見続ける山椒魚は眼のくらむ想いにかられるのである。
 「声なき声をきく」井伏のリアリズムのしせいとは、ただ無心に、無条件に耳を澄ますことではなかった。問題意識があってこそ聞こえてくるのだ。

【八月末、神教協の、ある一つの面での集約ということで、尾上さんにリポートしていただきました。】

授業を観る会 9月28日(火)
〈教材〉 『ドリトル先生アフリカゆき』
〈授業〉  明星学園5年(佐伯)
〈参加者〉 Y、M、OoS、K、A

“ドリトル先生”関係資料
・「少年倶楽部」昭和16年1月〜17年12月号 (『ドリトル先生航海記』)
・『ドリトル先生アフリカ行き』(初訳か) 〈フタバ書院発行、昭和16年12月〉
・関係論評
   「季刊 文学的立場」2 〈日本近代文学研究所 1970年刊〉
   「英米児童文学史」 〈研究社 1971年刊〉
   「子どもの本の世界」 〈福音館 1969年刊〉
・別訳
   『ドリトル先生アフリカへいく』 飯島淳秀(よしひで)訳 〈講談社 昭和42年刊〉
   『ドリトル先生航海記』 前田三恵子 訳 〈偕成社 昭和44年刊〉


1976/11/13 120

文学現象が歴史社会的現象であることの意味
―10月第一例会〔熊谷先生報告〕―
I.M
 文学作品jが歴史社会的現象であることを安易に自明のこととして考え、その意味を追求する姿勢に欠けていた私にとって、今度の例会、そして熊谷先生の問題提起は様々な意味でショッキングだった。先生はその問題提起の中で、文学作品は歴史社会的現象であるが、それは経済現象などの物理的な実在と違って、読者の認知の働きにおいてだけ現象する非物理的な実在であること。したがって、そこにある文学作品の文章が形象を託した文章、作品形象として成立するかどうかは読者の主観の在り方にかかわっていることを指摘された。これはすでに『芸術の論理』でおこなわれているものだが、先生はここでさらに文学作品の分析と評価はどういうものであらねばならないか、という角度から新たに問題を提起された。文学作品の特性が上記のようなものであるならば、作品の分析と評価は当然読者としての自己の感動を疎外してはありえない。自己の感動はその対象としての作品形象を語ることなしには表現できないのと同様に、作品形象の姿も自己の感動をぬきにして語ることは不可能だ。したがて、文学作品の分析と評価とは、自己の感動を分析し、その質を評価する作業と一体的、相即的なものとならざるをえない。
 文学作品の非物理的実在としての特性を明確におさえ理解することが、鑑賞と研究との関係文学研究の方法を考えるうえで最も基本的な前提となること。また同時に鑑賞と研究を機械的に分離して、自己の感動を抜きにして、作品を分析することが、つまり、作品の客観的評価をもたらすのだ、というような文学研究の方法論が、単なる“客観主義”にすぎないことも明らかになった。このような“客観主義”に立った場合、文学作品を読むことは自己の「主観」を変革し発展させることにつながっていかない。
 熊谷先生はこの例会では何回も、文学作品の鑑賞、分析と評価にとって、読者の主観がはたす決定的な役割を強調されたが、それは、私たちが文学を読む意味は何か、そのような問いかけと重なり合うものであった。作品形象を自己の感動をとおして分析し評価するということは、決して自己の主観・感想ベッタリになることではない。歴史社会的な場面規定において、自己をみつめ直し、感動の質を変革する姿勢がそこに要求される。そして、その事は同時に自分自身に〈人間〉をとりもどしていくこと、自己を見つめ、文学が志向する人間相互の対話の回復を実現しうる、そのように自己自身を変革していくことと重なり合うものである。それは非常にに困難な仕事であり、ある意味で不可能かもしれない。だが、人間が可変的な存在である以上、実現し得るし、また人間として生きようとする以上、実現しなければならない課題である。
 うまく整理できないが、そういった意味の事を熊谷先生は指摘されたように思う。自己の主観の変革をとおしてこそ、はじめて、作品の客観的評価も可能であること。そして芸術の原点を問うことは、自己の原点を問うことと重なり合わなければならないという『芸術の論理』の指摘の意味。
 私たちにとって、今度の例会はそうした根本的な問題を考え直し、また考え続けていくきっかけとなった。

 【この原稿は10月中旬にニュース部に届けられましたが、発表が遅れてしまいました。大変失礼いたしました。(ニュース部)】


1976/11/27 122

11月第一例会 井伏鱒二『朽助のゐる谷間』
 11月第一例会(13日)は井伏鱒二『朽助のゐる谷間』を中心とした座談会という形ですすめられています。
 始めに司会のNさんから10月の理論研究を主体化するための会であることが確認され、同じく司会の熊谷先生から、『朽助のゐる谷間』を読むにあたっての、次のような視点が提起されました。
 @ 「私」という人物をどうおさえるか。
 A 『多甚古村』は「駐在さん」が語っていくが、『朽助のゐる谷間』を、この作品につなげる形で、どう読んでいくか。
 B 教養的中流下層階級者の視点からみた、芥川との共軛性、異質性について。
 
 近くの席にいる者どうしの何回かのグループ討議、それをふまえての全体での話し合いの中で、主に次のような意見が出されました。
 ○ナレーターとしての「私」を通して、『丹下氏邸』との違いが明確になった。『丹下氏邸』の「私」と『朽助のゐる谷間』の「私」は違う。というのは「朽助」と「私」は精神的な意味では何か親と子のようなつながりを持ちつつ、また、違うところから、今、「朽助」を理解している「私」である。
 ○朽助の「くったく」を単にイデオロギッシュに描くのではなく、、朽助の「プシコ・イデオロギー」によってとらえている作品である。それが読者に感動をもって伝えていくことになるのではないか。その事を問題にした作品である。
 ○方言としてのおもしろみ――東京弁ではつかみきれない、また、たとえば東北弁であってもつかみきれない文学的効果を生みだしている。それが、全日本的なスケールの大きさを描いている結果になってくる。
  まだまだ、すばらしい話し合いがたくさんなされたのですが、まとめてしまうと会のふんい気がつたわりにくくなって残念です。
 とにかく、肩肘はらない自由な中に、すばらしいおみやげが一杯という感じの実り豊かな例会でした。
(ニュース部 Y)


1976/11/27 123 [ 122と同日発行]

Monologue
★「文学的感動を抜きにしては読めない。文学のいとなみは自分自身の人間を回復することにある。
 本当に、恥ずかしい事ですが、「私の大学」以前は文学をかなりいいかげんに読んできたように思います。文教研に入って『芋粥』の総合読みをしたとき、私は「五位」や五位をとりまく人々の中に自分をみつけ、今までの読みとの違いに気づき、自分なりに文学のいとなみが少しですが理解できたように思いました。〈M〉
★「主観を通さずには、ものごとを客観的に把握することはできない。
 わかっているつもりで、あいまいに通過してきて、結局自分の“主観”を見つめ直すことのあいまいだったことを反省しました。
「“太陽がほしい”ということばを与えることで、オスワルドの感情のあり方に、一定の内容を与えた。」
 ことばを大事にしたい……。〈T〉
★「主観的でない文学的感動はない」と共に絶えず「主観の問い直し、感動の質の問い直し」「自己の発想の組みかえ」、その事が「形象的認知」の中味なのだ。
 ――生徒の読みと対決したとき、「創造の完結者としての読者」……その事を統一的に、有効に働く概念としてつかうことができるようにしたいと思っている。〈O〉
★「自分の感動の質を高めるためには、相手の感動の質に学び、又、戦うことだ。
 分析という手段に大へん新しいものを感じました。インプリケーションの多い文学の分析――自分なりにでも、もっと咀嚼したい。〈O'〉
★自分の読みを固定し、それにしがみつき、他者の読みを排撃するための、文章操作……、自己の変革を目指す、新しい〈みる我〉〈みられる我〉、そんな分析でなければいけないのだ、ということを知ったような気がします。〈O''〉

・本号の原稿はすべて、本ニュース部に寄せられたものではありません。したがってすべてトク名にいたしました。
・尚、本文中の「 」のことばは、すべて熊谷先生のことばとして引用されているものです。
・本号は〈S〉の責任において編集されたものです。


1976/12/11 124

井伏鱒二『多甚古村』 中々間報告
S.T
11月27日の例会は二部構成。企画部を代表されて、熊谷先生から『多甚古村』と『遙拝隊長』を読む上での私たちへの課題(機関誌 98/p.19〜20参照)についての説明――示唆がなされ、充実した楽しい夕食を間にはさんで、『多甚古村』(この日は「12月31日」までの部分)の総合読みをした。
 
 まだ心のどこかに、勝ち戦さでの終戦を思っていた日中戦争下の銃後の世界(『多甚古村』)と、銃後そのものがまた、まごうかたなき戦場であった太平洋戦争の体験をくぐった世界(『遙拝隊長』)との違いを――「暮しの手帖」(S.44.8「戦争中の暮しの記録」)の『戦場』という詩を例にとられながらの熊谷先生のお話。決定的な場面規定の押さえ。毎度のことながら、またもや ウーン!
 そして、『炭坑地帯病院』、『丹下氏邸』『さざなみ軍記』の文体の統一として『多甚古村』が位置付けられること。例えば方言の問題。『朽助のゐる谷間』『丹下氏邸』等と比し方言による表現はより抑えられて、共通語によるそれになっている。量から質への転換の問題として考えてみよう。また、ナレーターの「私」が前記のような作品のいわば「都会的インテリ」ないしは、「みやこ的教養人」とは異って、大学出ではない、いわばセミ・インテリとして設定されていること。そうした点、日記形式をとりながらも、『さざなみ軍記』に見られた「私」の《自己の魂の成長の記録》とは異質なものであること。セミ・インテリの私的日記という形で浮彫りにされた「悩める山椒魚」・「悪党の山椒魚」・「蛙」の群像――庶民群像の世界。セミ・インテリであるが故の的確に整理・総括して捉えられない、が、また庶民感情に即した――庶民的 倦怠の心情〉の中に捉えられる世界。日記形式――何日分かをまとめて読むことで読者には見えてくる、そうした構成なのだ。読みの方法はそうした対象(作品)によって規定されてくる。ヘンに立ちどまる(――形式化した総合読み)ことは許されない。アヽ、ナンテムヅカシイコトナノダ! さらに さらに『朽助のゐる谷間』等に見られたロマンチック(――ウェット)性がここでは消えてしまっていること、限リ無シ。が、こうした文体は『集金旅行』という回り道での怪我の功名であったのではないか。熊谷先生のお話、次の部分の報告・討論を踏まえての私なりの中々間まとめ、お許し下さい。

K.N
 読者側の構えの重要さを今までに増して思い知らされた作品である。前後の作品との関連、場面になる“日中戦争”銃後の状況の正確な認識、ナレーターの位置付けなど、しっかりした方向に基いて読んではじめて、一見なんでもない一つ一つの言葉が自分の中で生きてくるのである。
 梅のまだ咲かない多甚古村に30歳前後の駐在さんが赴任する。おそらく旧制中学出ぐらいであろう誠実な人柄の一人の庶民の眼を通して、日常の細かな現実が描写されていく。ほんの時たま、ちょっぴり正直な本心をのぞかせる他、ほとんど自分の感情で判定を下すことをせず、たんたんと書きつづられた日記。そこには必然的に庶民の心理イデオロギー(プシコ・イデオロギー)が反映され、現在の時点でしかつかみえない最も具体的な現象を読者の前に提示する結果をもたらしているように思われる。これからの展開が楽しみである。


1976/12/26 125

12月例会 井伏鱒二『多甚古村』(続き) 報告者からの中間報告
T.M
 泰山鳴動してネズミ一匹。そんな報告でした。資料だ何だと大げさに広げているうちに、肝心の自己の感動が非常に稀薄なものになってしまいました。つくづく反省しています。
 すっぽり落とした点、新たに学ばせてもらった点を列挙してみます。
 @ この作品が井伏のせいいっぱいの抵抗(文学的抵抗)だったという予測があった。
 A 甲田巡査という「狂言まわし」が、今までにないユニークな“セミ・インテリ”としての性格を持っていること。
 B 山椒魚とカエルの関係がこの作品の中でもシンボリックに展開されていること。
 C 甲田巡査の日記という形で書かれているが、『さざなみ軍記』とちがって、自己凝視が問題なのでなく、彼の目で捉えられた人間群像の世界であること。
 D 読者の視座から庶民的な倦怠感がうかがわれること。等々。
 ABCDその他を検討していくうちに、@が実証されていくと思います。
 甲田巡査の性格が親しみやすく、あたたかさが読者に伝わってくるのですが、つかみにくい点もあります。例えば誠実な平凡そうな巡査なのですが、圧迫されつつある時代にあって、何かやるせなさ、倦怠感といったものを感じさせるからです。「たんたんと書いてあるようで、案外、感情の起伏がでてる。」と佐藤チューターがおっしゃいましたが、ここがくせものだと思います。
 セミ・インテリのゆえんで、言葉としては整理できないが、また、自己の内部では無意識なのでしょうが、井伏文学の本来の読者には深く感じられるものがあったと思います。
 山椒魚とカエルに関連しますが、一見なにげなくおきている事件(「喧嘩三件」)も、あるいは、そのままの「よっぱらい」も、疎外された人間が、また他の人間を疎外していくというパターンが見られます。酒を飲まずにいられない、という庶民の生活が、心情がなにやらわかる気がしてきます。
 こうした中にまき込まれ、人間的に関わっていく巡査が、子どもの素朴な遊びにほっとするという場面があります。ある倦怠感につかまれている巡査を感じずにはおれなくなるところです。なぜ、庶民はこうするのか、という疎外の根源にむけての問いが始まっていきます。ぼくにはわからなかった元旦の日の甲田巡査の涙(何の理由もなく落涙した)が次第に氷解していきました。
 三人のチューターの絶妙な整理と問題提起によって、ゼミはいよいよ深まっていきます。

大内寿恵麿  リサイタル
1月13日(木) p.m.6:00
砧 区民会館


HOME頁トップ「文教研ニュース」記事抜粋1975年1977年‖研究活動