機関誌による文教研史C 1989年11月発行「文学と教育」第150号「巻頭言」
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150号に寄せて――広範な仲間との交流を 委員長 福田 隆義 |
機関誌「文学と教育」の創刊は、一九五八年一〇月。この一〇月で満三一年、通算一五〇号になる。三〇と一年間「文学と教育」は、会員の情熱と執念に支えられて、一五〇号におよんだ。 その一例を紹介しよう。まだタイプ印刷だった六〇号に〈機関誌の活字印刷をめざして〉というアピールがある。月額三百円の活字化基金を拠出しようと呼びかけている。六一号には〈二五,七〇〇円集まる〉を見出しに「機関誌“文学と教育”活字化基金は、その後、順調に集まっています。東京・神奈川・埼玉在住の会員は、自分のおさいふとにらみあわせて、基金を寄せています。ある会員はすでに来年の六月分まで、三千円をポンと出して係を感激させました。」云々。三千円がどれだけの貨幣価値だったか、ちなみに一九六九年当時の文教研会員の会費は、月額一二〇円だった。創刊号からそうだったが「文学と教育」は自前の機関誌であり、手づくりの機関誌である。「文学と教育」の活字化は、こうした会員の情熱に支えられ、一九七〇年、六五号で実現した。 だが、私たちの念願は、活字化にとどまらなかった。それは出版ルートにのせることだった。というのは、体制側の反動攻勢につれて、私たちの主張はジャーナリズムから締め出されてしまったからである。それにはそれなりの理由があったようだ。たとえば、三三年(一九五八年)版「学習指導要領」の批判である。私たちの批判は、たんにイデオロギー主義的な批判ではなかった。部分修正を迫る批評でもなかった。その根底にある、言語観・文学観、ひいては認識論にまでさかのぼった論理的な批判を展開した。そうした批判をふまえて提起したのが、熊谷孝氏の「国語教育としての文学教育」(「文学と教育」5)である。当時から体制側は、文学教育という発想を敬遠し、排除しようとしていた。熊谷氏の、コトバの機能的本質からみたとき、文学教育を欠いて、教育・国語教育は成り立たないという主張は衝撃だったに違いない。こうした根底からの批判や主張に対して、体制側追随者はジャーナリズムから締め出し封殺する以外に対応できなかったのだろう。民間教育研究団体からさえ、曲解・誤解される期間がつづいた。その後の文教研理論の展開は、すでにご存知のとおりである。「国語教育としての文学教育」から「文体づくりの文学教育」へ。さらに「文学の科学――文学の科学としての文学教育論」へと深化している。こうした成果をめぐって、より広範な仲間と交流し合いたいと願う、その執念が一五〇号を支えてきたといえよう。 その念願が実現したのは、現発行元〈みずち書房〉と契約が成立した、一九八三年、一二三号からだった。しかし、手づくりの機関誌、自前の機関誌であることに今も変わりはない。この間、文教研は〈日本学術会議〉の登録団体になり、「文学と教育」は〈国際標準逐次刊行物〉として指定されるなど、学術的な地歩も確かなものになってきた。が、しかし、より広範な仲間と交流したいという所期の目的は、いまだ充分とはいえない。今後に残された緊急な課題である。 最後に「文学と教育」は、前述のように手づくりの機関誌であり、専任の編集者がいるわけではない。編集長をはじめ編集部の方々の多大な努力によって継続してきた。ここで歴代の編集長を紹介して、お礼にかえたい。編集部として組織的に確立したのは一九六八年、機関誌でいうなら五〇号からである。その初代編集長は夏目武子氏。二代目は鈴木益弘氏。そして現編集長、佐藤嗣男氏は、三代目である。(後注:2001年11月現在、号数は193号、編集長はかわらず三代目・佐藤嗣男氏である。) |
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